ちょいと小噺!

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  1. JAN 26

    朝比奈秋著『サンショウウオの四十九日』感想 たまには純文学を

    これは純文学でしたね。 第171回芥川賞受賞作!同じ身体を生きる姉妹、その驚きに満ちた普通の人生を描く、芥川賞受賞作。周りからは一人に見える。でも私のすぐ隣にいるのは別のわたし。不思議なことはなにもない。けれど姉妹は考える、隣のあなたは誰なのか? そして今これを考えているのは誰なのか――三島賞受賞作『植物少女』の衝撃再び。最も注目される作家が医師としての経験と驚異の想像力で人生の普遍を描く、世界が初めて出会う物語。 一つの体の右左にそれぞれ人格が宿った女性の話。荒唐無稽のような気がしますが、しかし語り口は落ち着いている。「え?本人そうなん?」と思うような視点の細やかさ。そして、なんともいえない読み応え。 位置: 339 オプション  アビー&ブリタニー姉妹は胴体が全部くっついているが、首は二本で頭は二つある。ベトちゃんドクちゃんは腰部がくっついていても、それぞれの上半身を持っている。 私たちは、全てがくっついていた。顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、はたから見れば一人に見える。今でも初対面の人は、私たちの顔を見た時、面長の左顔と丸い右顔がくっついたものとは思わない。結合双生児ではなく、特異な顔貌をした「障がい者」だとみられる。 うーん、小説のテーマとしてよくこれを持ち出したよね。すごく挑戦的。 描くこと自体が差別的と言われかねないと危惧する人はいたんじゃないかな。でも、小説ってそういうことだよね。タブーに切り込むのが、人の心を揺さぶるのに一番手っ取り早い。 位置: 377 彼は名前を順番に呼んだ。濱岸杏さんと呼ばれると私は左手をあげて、濱岸瞬さんと呼ばれると瞬は右手をあげて元気よく返事をした。そして、右半身と左半身を交互に観察した後、彼は私と瞬のどちらでもない場所、つまり境界を見いだした。 読んでいるうちに、やっぱり「人間を人間足らしめているものってなんだろう」ってなる。思考?身体?でも、思考が流入している主人公みたいな人は? フィクションだからこそ、なんとも言えない気持ちになる、そうなることが許される。 位置: 474 大学を卒業した後で知り合った人には何の説明もしていない。初対面の人に濱岸杏ですと杏が自己紹介すればわたしは黙り、わたしが濱岸瞬と名乗れば杏は黙っている。深く知り合う前から自分たちの状況を説明したところで惨めでしかない。 杏と名乗った人と瞬と名乗った人が同時に存在する状況ではどうするんだろう。そんなことはないのか。だから工場がいいのか。 この距離の取り方、なんとなく現代の処世術な気がするんだよね。必要以上に開示しない感じ。 位置: 505 ロッカーが離れ離れになったあたりからどうも扱いが雑になって、卒業式でも中学の卒業証書授与は二枚重ねてもらえたが、高校では杏が証書を受け取って、同じ名字の浜岸 泉 が呼ばれて壇上にあがる間にぐるりと回ってもう一度壇上にあがるハメになった。わたしたちを良く知らない市長は校長に耳打ちしていた。なんであの子だけ二回取りにいったの、とでも聞いていたのだろう。校長が一言二言返すと、市長は頷いていたから、校長も校長で、中学生のときにわたしたちのことをあしゅら男爵と揶揄した体育の先生みたいに、都合の良いキャラクターでも引用して市長に説明しているのかもしれなかった。 ほんと、あたくしも失礼ながら、最初にあしゅら男爵だと思った。もしこういう人間がいるんだとしたら失礼な話だ。ただ、自分の知っているカテゴリに事象を当てはめて理解するムーブはやめられない。 位置: 551 そもそも父と伯父の関係もそうだ。胎児内胎児だって 50 万出生に1組。人口が何十億人もいることを考えれば、たびたび結合双生児も胎児内胎児も生まれてくる。たいしたことではない。 これ聞くとさ、この話のようなことって本当にあるのかと思うよね。脳みそ半分ずつ、顔半分ずつ、みたいな。いるのかな? 位置: 668 意識はどこからも独立している。タチアナとクリスタの意識は脳からも互いからも完全に独立している。思考や感覚が混じっても、意識が混じることはない。人間存在は内臓や心身のすべてを超越している! じゃあ、人間を人間足らしめているのは、あたくしをあたくしたらしめているのは? デカルトは何をもって「我」としたのか。東洋哲学みたいになってきたな。自分とは、みたいな。 位置: 938 以前から時おり、二人の間に挟まっているものの薄さに怯えていた。身体の中では二人をわけている薄っぺらい何らかの隔たり。その隔たりを、血や内臓、感覚も記憶もひょいと跨いで行き来している。 ひょっとしたらそれは、決して他人事ではないのでは。自分を自分たらしめているのがなにか、自分でもよくわかっていないんだから、ひょいと跨いで何かが一時的に自分を動かす、ということもないとはいえない。あたくしは自分を単一人格の単一個体だと思っていますが、果たしてそうかな。 位置: 1,123 あぁ、これは伯父のお腹の左側、父の反対側に居た父の弟、私たちにとって叔父にあたる人物の水子供養の墓石だと杏が感づいた。 ふむ、予想外の展開。急に水子が出てきた。双子が生まれやすい家系というのがあるように、くっついて生まれやすい家系というのもあるのかもしれませんね。そしてさらに、自分を自分たらしめているものが何なのか、分からなくなりました。自分は様々な人格を経由した先の現在の一時的な人格に過ぎないんじゃないか、とか思ってみたり。

    29 min
  2. 05/23/2025

    村上春樹著『街とその不確かな壁』感想 パラレルワールド苦手 

    村上春樹の最新刊。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のパラレルワールドなのか? 村上春樹、6年ぶりの最新長編1200枚、待望の刊行! その街に行かなくてはならない。なにがあろうと――〈古い夢〉が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、封印された“物語”が深く静かに動きだす。魂を揺さぶる純度100パーセントの村上ワールド。 やはり気になるのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とのつながり。あの物語の後日談?書き直し?気になりながら読んでみると…… 上 第一部 位置: 203 父親は地方公務員だったが、きみが十一歳のときに何か 不手際 があって辞職を余儀なくされ、今は予備校の事務員をしているということだ。どんな「不手際」だったかは知らない。でもどうやら、きみがその内容を口にしたくないような 類 いの出来事であったようだ。実の母親は、きみが三歳の時に内臓の 癌 で 亡くなった。記憶はほとんどない。顔も思い出せない。きみが五歳のときに父親は再婚し、翌年妹が生まれた。だから今の母親はきみにとって継母にあたるわけだが、父親に対してよりはその母親の方に「まだ少しは親しみが持てるかもしれない」という意味のことを、きみは一度だけ口にしたことがある。 「きみ」の複雑な家庭環境。父親を毛嫌いしていることだけは分かる。やはり内田樹氏がいうところの父の不在ということなんだろうか。 位置: 1,556  ときおりそのような暗黒の川筋から迷い出てきたらしい不気味な姿の魚が、川岸に打ち上げられた。そんな魚たちの多くは目を持たなかった(あるいは小さな退化した目しか持たなかった)。そして太陽の下で不快きわまりない異臭を放った。とはいえ、実際に私がそのような魚を目撃したわけではない。ただそういう話を聞いただけだ。 これはおそらくやみくろたちが崇拝していた神の姿かと思われる。本作では匂わせただけで全く関係なかったけどね。 位置: 1,782 亡くなった母親と、現在も生きている父親は、わたしのことを本当の娘だと思っていますが(思っていましたが)、それはもちろんまちがった幻想です。わたしは遠くの街から風に吹き寄せられてきた、誰かのただの影に過ぎないのです。 正直、統合失調症かパーソナリティ障害を疑う発言。 ただ、彼にとっては唯一無二の存在である「きみ」。このへんの歪んだ愛情というか、思い込みの激しさというのは若いときの特権でもあり、危なっかしさだよね。そして彼はこれをありのままに受け入れているようにみえます。大した包容力だ。 位置: 1,784 彼らはそのことを知りません(知りませんでした)。そしてわたしのことを本当の自分の子供だと信じていました。そのように 誰かに 信じ込まされていたのです。つまり、記憶をそっくり作りかえられていたのです。だからわたしがそのことで(自分が誰かのただの影に過ぎないことで)どれくらいつらい思いをしてきたか、彼らには想像もつかないのです。 うーん、この発言も別の意味でキツい。あたくしも父親ですからね。娘にそう思われていたらと考えると頭抱えたくなりますね。 位置: 2,001 でも実際には逆なんじゃないか。壁の外に追いやられたのは本体の方で、ここに残っている連中こそが影なんじゃないか──それがおれの推測です」 その問は実に面白い。ただ、最初から最後まで感覚的なんだよなー。それがね、「結局何いってんだこいつら」を最後まで破れないんですよね。偽りの記憶をすり込まれた、とか言うけど、何から何まで想像でしかなく、無根拠に無根拠を重ねた九龍城を見せられている気持ちになる。 位置: 2,317 「いいですか、この街は完全じゃありません。 影の狂人具合が、前著に比べて本著では強調されている気がします。どういうことなんだろ。壁も喋りだすしね。 第二部 位置: 2,843  私は小さなコンビニエンス・ストアで熱いコーヒーを買って、その紙コップを手に、駅の近くにある小さな公園で時間を潰すことにした。 村上春樹にしてはとても現代的な描写。コンビニで紙コップのコーヒーを買えるのはここ10年くらいじゃないかな。同時代性を感じるのは彼の著作の中では初めてかもしれない。あたくしの経験不足なだけかもしれませんが。 位置: 3,171 私は顔を上げ、川の流れの音が聞こえないものかと、もう一度注意深く耳を澄ませた。しかしどんな音も聞こえなかった。風さえ吹いていない。雲は空のひとつの場所にじっといつまでも留まっていた。私は静かに目を閉じ、そして温かい涙が 溢れ、流れるのを待った。しかしその目に見えない悲しみは私に、涙さえ与えてはくれなかった。 涙にならない悲しみ。これをどう表現するのか。 村上春樹は巧みだと思いますね。深い悲しみをそのまま、あまり調理せず描写している。同じような言葉を同じように、あるがままに紡ぐ。芸というのではない慎重さを感じます。 位置: 3,252 「でもいずれにせよ、彼女はよほど素敵な人だったのね?」「どうだろう? 恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ、と言ったのは誰だっけ?」 調べたら、『ダンス・ダンス・ダンス』にそんな描写があるらしい。添田さんのセリフ。 位置: 3,321 図書館にはWi-Fi設備などは設置されていなかったから、私が自分のコンピュータを使えるのは自宅に限られていた。 村上春樹作品にWi-Fiが出てくるとはね、、、、、 位置: 3,333 慶賀すべきものなのか、慨嘆すべきものなのか こんな難しい、やや衒学的な言い回しが出てくるとはね、、、、、 下 位置: 519 いったん混じりけのない純粋な愛を味わったものは、言うなれば、心の一部が熱く照射されてしまうのです。ある意味焼け切れてしまうのです。とりわけその愛が何らかの理由によって、途中できっぱり断ち切られてしまったような場合には。そのような愛は当人にとって無上の至福であると同時に、ある意味厄介な 呪いでもあります。 これは、親から子への愛は純粋ではない、ということかしら。割と多くの人が、焼け切れた状態になるはずだけど。 そうじゃないとしたら、とても的はずれな推量に思えますね。いささか悲劇のヒロイン気質にすぎるというか。 位置: 3,238 「『コレラの時代の愛』」と彼女は言った。 「ガルシア゠マルケスが好きなの?」 出てきました。ガルシア・マルケス。苦手だぜ。 後半は、前著とは全く別の展開なんだが、「何か起こりそうだけど何も起こらないだろうな」もしくは「何か起こってもきっと大した理由もなく起こるんだろうな」という予感はあり、そしてそれがほぼ当たっています。因果関係の不明確な物語、苦手。 結局、ペンフレンドの彼女も、消えたイエローサブマリンの少年も、世界の終りの謎も、何もかも分からないまま、終わる。もう諦めてはいたけど、それでもやっぱり読後感に物足りないものを感じます。 そもそも、この手のパラレルワールドものが苦手でね。詳しくはpodcastを聞いてくださいませ。

    44 min

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