生き方研究会|善く生きるために。

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ポイズンな世界において、どうすれば楽に生きられるのか。 より善く生きる方法を研究しています。

  1. 【虚無編|最終回】あなたの生きづらさはどこから?

    8 THG 9

    【虚無編|最終回】あなたの生きづらさはどこから?

    虚無編最終回。近代シリーズ、ここまでお付き合いくださりありがとうございました!長々やってきましたが、言いたいことは全部この回に詰まっています。ここから聴いてもらっても構いません。 --再掲&追記-- 今回のシリーズでは扱っている「理性」という言葉について、補足。(細かい話なので、スルーでも構いません。) 理性という言葉を聞くと「自分の頭で考える力」と思いがちですが、もともとはそうではありませんでした。中世の人々にとって理性は、神がつくった世界の秩序を理解するための力でした。理性を使うことは、ただ考えることではなく、神の真理に近づくことだったのです。 その考え方は近代の哲学者たちにも残っていました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、その確かさを支えていたのは「神は人間をだますことはない」という信念でした。ライプニッツもまた、世界の調和は神の理性の表れであり、人間の理性はその一部をのぞき見る窓のようなものだと考えました。つまり理性とは、単なる「頭のはたらき」ではなく、神の普遍的な理性につながる道だったわけです。 --ここから追記-- ところが啓蒙の時代に入ると、この神とのつながりが薄れていきます。宗教の力が弱まり、「神が決めたから正しい」という共通の基準がなくなる一方で、科学が力を持ち始めました。科学では「誰がやっても同じ結果が出る」ことが大切にされます。そこで理性も、「普遍的な真理をめざすもの」から「みんなが確認できて納得できるもの」を探す力へと変わっていったのです。 こうして、神の真理に向かう窓口だった理性は、次第に「多数派の意見」や「みんなの合意」にすり替わっていきました。その結果、人は外の基準に頼ることが多くなり、自分の判断を信じにくくなったと言えるのではないでしょうか。 --------------- ✉️おたより 番組へのご感想、質問、お悩み相談など、お気軽にこちらへどうぞ → maga@cowspi.com --------------- 🌐各種SNS(作りました!) X → https://x.com/quant_life44 note → https://note.com/quant_hieros

    35 phút
  2. 【虚無編⑥】我々が生きる「快楽主義」の世界

    3 THG 9

    【虚無編⑥】我々が生きる「快楽主義」の世界

    近代シリーズ6本目です。 神やお天道様、ご先祖様はいなくなり、「個人の人生」が大事になった近現代。個人の人生において大事なのは、「私が気持ちいかどうか」。それが生きる指針、生きる判断軸になっていきました。 「何のために生きてるのか」 「私は生きてて意味あるのか」 暇になってボーっとするとそんな問いが我々を襲ってきます。向き合うと発狂しそうな問い。今すぐ気を紛らわせる必要があるし、そのための手法は腐るほど用意されています。 ネットフリックス、TikTok、ストロングゼロを見て、うやむやにしてまいりましょう。 . --今回の補足-- 近代の理性信仰がめざしたのは、本来「神や伝統に縛られず、自分の理性を働かせて自律的に生きること」でした。ところが理性の出発点はどうしても「私」という主体になります。そのため「世界の中心は自分」という感覚が強まり、やがて自己中心主義へと傾いていきました。 さらに近代社会では、自由や合理性が「自分の利益や満足を追求すること」と短絡的に解釈されやすくなります。こうして、理性信仰が意図していた自律の思想は、歴史のなかで自己中心主義へとすり替わり、やがて快楽主義へとつながっていったのです。

    18 phút

Giới Thiệu

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