小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 私たちは夢見る旅人(稲葉基嗣) – 創世記 11:10–12:9

    16시간 전

    私たちは夢見る旅人(稲葉基嗣) – 創世記 11:10–12:9

    2025年10月5日 三位一体後第16主日 説教題:私たちは夢見る旅人 聖書: 創世記 11:10–12:9、ヘブライ人への手紙 11:1–8、詩編 121、マタイによる福音書 5:3–10 説教者:稲葉基嗣   ----- 創世記の物語は、アブラム(アブラハム)とその家族の物語にたどり着きます。アブラムとその家族は、父親のテラが生きていた時代に、故郷であるカルデアのウルを離れて、カナン地方を目指して旅に出ました。父親のテラはその旅の途中、ハラン滞在中に亡くなってしまったようです。カナン地方を目指していたその旅の途中で、家長であるテラを失ったあと、家長となったアブラムには大きな選択が委ねられていました。テラが望んだように、カナンの地を目指すべきなのか。それとも、引き返して、自分たちの親戚がいる、生まれ故郷に戻るべきなのか。そんな彼に「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」(2節)と神が語りかけたとき、物語は動き始めます。この言葉を聞いて、将来の保証のない、先の見えない旅へと彼は出て行きました。アブラムの旅を決定的に方向づけたのは、神が彼に語りかけた言葉でした。決定的なメッセージは、「あなたは祝福の基となる」という言葉でした。神は、その祝福をアブラムやその家族を通して、全世界に伝えることを願いました。このようなアブラムの旅と、私たち教会は決して無関係ではありません。教会は、天の国を目指して、この世界を旅する神の民です。私たちの人生は、既に神の祝福に包まれているのにもかかわらず、神が「祝福であれ」と語り、私たちに祝福を注ぐのは、私たちの存在を通して、神の祝福をこの世界へと広げていくためです。暴力によって命が傷ついている世界に、癒やしと命の喜びをもたらすためです。神の祝福された世界に、神の祝福が行き届いていくという、神の夢を私たち自身が神と一緒に担うために、神は「祝福であれ」と私たちに語りかけておられるのです。神が私たちに与える約束は、私たちが祝福の源となるということでしょう。祝福の源であるということは、そこから祝福が沸き起こってきて、周囲に広がっていく、ということです。この世界の「祝福であれ」と神から伝えられている私たちから、喜びや愛や憐れみが、この世界を祝福として湧き出ていく。神は、そんな風にして、私たちを通して、この世界を祝福し、祝福に溢れた世界にしたいと願っています。ここに集う私たちと共に生きる人たちのために、顔も名前も知らない人のために、主キリストにあって、私たちは祝福の源であることができます。夢見る神の民である私たちの旅は、神の祝福をこの世界に喜びをもって分かち合っていくために、これからも続きます。

    22분
  2. バベルの塔の物語は呪い?それとも祝福?(稲葉基嗣) – 創世記 11:1–9

    9월 28일

    バベルの塔の物語は呪い?それとも祝福?(稲葉基嗣) – 創世記 11:1–9

    2025年9月28日 三位一体後第15主日 説教題:バベルの塔の物語は呪い?それとも祝福? 聖書: 創世記 11:1–9、使徒言行録 2:1–13、詩編 150、エフェソの信徒への手紙 4:1–7 説教者:稲葉基嗣   ----- バベルの塔の物語は、世界中に様々な言語がある理由を説明しようとしています。この物語は、人間の傲慢さがたくさんの言語を人々が話す状況を作り出すきっかけとなったと伝える物語として、理解されることが多いかと思います。天に届くような塔を建てることによって神のようになりたいという彼らの願いは、人の欲望や傲慢さとして神の目に映ったため、神は人間の言葉を混乱させました。けれども、この世界に様々な言語があるのは、罪や過ちの結果なのでしょうか。多様性に満ちた人々がこの世界に広がっていくことを神は喜び、そんな世界を祝福していることが創世記がこれまで強調してきたことです。言語がたくさんあることって、まさに神が願う多様性ではないのでしょうか。この物語に登場する人々は、散らされることを恐れています。彼らは自分たちが世界中に散らされないため、一つであるため、そして同じであるための試みを続けました。けれども、同じ言葉しか聞こえてこないというのは、その背後で声を上げることができない人たちがいるからです。同じとか、一つというものの背後には、沈黙や抑圧がある可能性があります。その背後で苦しんでいる人たちにとっては、同じことや、一つであることは、抑圧の道具であり、呪いです。神が願った世界のあり方は、一つであるとか、同じであることを誇るのではなく、彩りが豊かな、多様性に満ちた状態でした。だから、神は、人々が一つであり、同じであることを目指した、この物語において、人々が用いる言語を多様なものにしました。ひとつであることを押し付けられることにこそ、人間存在の混乱があるからです。だからこそ、人々の間に多様性を実現するバベルの塔の物語の結末は、神の祝福と希望に満ちたものといえます。もちろん、多様な人々がお互いの違いゆえにぶつかり合ってしまうことは、現実的な問題です。けれども、多様性を喜び、誰の存在も決して諦めなかった神は、歩むべき道を示してくださる方です。ひとつの考え、価値観、言葉によって、神は私たちを結び合わせようとはしません。私たち一人一人の違いを尊重しながら、聖霊によって結び合わせることによって、それぞれの違いが大切にされると同時に、 平和のうちに共に歩むことができる道を神は備えてくださいました。それは、教会の交わりにおいて実現すると、神は私たちの背中を押してくださっています。

    23분
  3. どんな地図を作りたい?(稲葉基嗣) – 創世記 10:1-32

    9월 21일

    どんな地図を作りたい?(稲葉基嗣) – 創世記 10:1-32

    2025年9月21日 三位一体後第14主日 説教題:どんな地図を作りたい? 聖書: 創世記 10:1-32、ヨハネによる福音書 3:16–21、詩編 117、ローマの信徒への手紙 1:16–17 説教者:稲葉基嗣   ----- 地図は読む人の目的によって、さまざまな情報を私たちに伝えます。また、地図を作る人が込めた意図によって、様々な意味合いや強調点を持ち、地図は私たちに世界の様々な姿を見せてくれます。そう考えると、地図はこの世界のありのままを映し出しているわけではなく、私たちの世界の見え方や、見て欲しい世界のあり方が表現されているといえます。創世記10章は、言葉によって地図を描いています。一見、これは系図のようですが、縦ではなく、横に長い系図です。ノアの孫たちの名前は、民族名や地域の名前をあらわす名前になっています。そのため、世界に広がったノアの孫たちが、様々な民族や地域の名前の由来となった、という説明を提供する系図となっています。その意味で、これは言葉によって作り出された世界地図のようなものでした。この地図は、1人の人や1つのグループによって作り出されたものではありません。この地図は、いくつかの地図を組み合わせてできたものです。その意味で、ひとつの視点からではなく、いくつかの視点が重なり合って、多層的で、色々な見方ができる地図として、この地図は成り立っています。人々が世界に増え広がったことが、この世界地図が持つメッセージです。創世記1章において「産めよ、増えよ」という祝福は、すべての人に与えられました。あらゆる民族、あらゆる地域に住む人々、あらゆる言葉を話す人たちがこの祝福の言葉の対象であるため、この地図はとても平等な見方をしています。古代イスラエルを苦しめた帝国も、あまり知られていない民族も、資料を残さなかった民族も、この世界地図には含まれています。神の祝福の結果、この世界に増え広がった民族のひとつとして、すべての民族を平等に描こうとしています。私たちは自分たちが生きるこの社会やこの世界に、そして日常の中に、どのような地図を描くべきなのでしょうか。お互いの命を喜び合い、神の祝福を誰もが実感し、楽しむために、私たちはどんな地図を作るべきなのでしょうか。結局のところ、ひとりの力で、誰か特定の人たちの力でこの世界や、私たちの生きる社会に、地図を作ろうと思うと、どうしても無視されてしまう声、踏みにじられてしまう人たちがいます。私たちに必要なのは、多くの人と語り合い、その声に耳を傾けながら、お互いの地図を重ね合わせて、地図を作っていくことです。その結果、カラフルでたくさんの発見がある地図が出来上がるならば、何と素敵なことなのでしょうか。

    21분
  4. わたしたちが福音を信じるということは(石田学) – ローマ 15:14–21

    9월 16일

    わたしたちが福音を信じるということは(石田学) – ローマ 15:14–21

    2025年9月14日 三位一体後第13主日 説教題:わたしたちが福音を信じるということは 聖書: ローマの信徒への手紙 15:14–21、ミカ書 6:8、詩編 67、マルコによる福音書 1:14–15 説教者:石田学   ----- きょうは礼拝のはじめに、マルコ福音書1:14−15を読みました。マルコが伝える最初の主の言葉は、二つの事実と二つの命令です。「時は満ちた」「神の国は近づいた」という二つの事実に続けて、「悔い改めよ」「福音を信ぜよ」という二つの命令が続きます。「福音を信じなさい」と言われて、きっと少し困惑することでしょう。イエス様もマルコも「福音」とは何かを説明してくれないからです。不親切だからというわけではなく、福音は定義も説明もできないのです。福音とは、主イエスそのものであり、主イエスの出来事そのもの。だから主イエスに聞き、心に留め、共に生きることが必要です。そこでマルコは、福音書全体をとおして、主イエスの出来事を語ります。主イエスを説明するのではなく、主イエスと共に生きることを告げるのです。福音とは、主イエスに倣い、主と共に生き、死に、復活の希望を抱くことです。そうであれば価値観も希望も生き方そのものも、以前と同じではいられません。考えようによっては、こんなに恐ろしいことはありません。事実、マルコは主イエスと共に生き、主の復活を知った女性たちの恐れを、こう伝えて終わるのです「何も言わなかった。恐ろしかったからである」。たぶんわたしたちは昨日もきょうも明日も、同じように生きてゆきます。ごはんを食べ、勉強や仕事をし、家事をし、遊び、笑い、時に悲しみます。でも、主イエスはいつもわたしたちに「福音を信ぜよ」と呼びかけるのです。それは「わたしと共に歩め」「共に生きよ」「神の国を望め」という主の声。わたしたちが福音を信じるということは、この主の声を聞き、従うことです。パウロもそのような意味で「福音」という言葉を使いました。異邦人つまり諸国の人々に福音を伝えたパウロは自分の働きをこう語ります。「聖霊によって聖なるものとされた、御心に適う供え物となる」ことだと。「御心に適う供え物となる」という言葉は、現代人には怪しげに響きます。現代のわたしたちは自分が自由で何ものにも縛られないと考えますから。だが、考えてみればそれはなんという幻想、なんという思い込みでしょうか。この世界の欲や誰かの利害を超越する、根源的な理想と希望なしには、人は簡単にこの世界の何か・誰かに自分を捧げることになるでしょう。自分であれ自民族であれ、国家であれ、富であれ、成功であれ、そうした何かに自分を捧げることは偶像崇拝であり、対立と敵対の根源です。わたしたちの週ごとの礼拝は、神に自分を供え物として捧げることです。神に自分を捧げるとは、神に従うことであり神の御心に添う道を歩むこと、つまりキリストに従って生きることであり、それが福音を信じるということです。

    25분
  5. 呪いではなく、祝福の始まりの場所となるように(稲葉基嗣) – 創世記 9:18–29

    9월 7일

    呪いではなく、祝福の始まりの場所となるように(稲葉基嗣) – 創世記 9:18–29

    2025年9月7日 三位一体後第12主日 説教題:呪いではなく、祝福の始まりの場所となるように 聖書: 創世記 9:18–29、マタイによる福音書 15:21–28、詩編 82、コロサイの信徒への手紙 3:5–12 説教者:稲葉基嗣   ----- なぜハムにではなく、カナンに呪いの言葉が伝えられるのでしょうか。そもそも、ノアに対するハムの行いも何が問題であったのかさえわかりません。ノアの裸を見たからでしょうか。ハムが父親が酔って裸になっていることを兄弟たちに伝えたからなのでしょうか。文化的には、父親の権威が貶められたことが理由だと想定することは可能ですが、だからと言って、ハムではなく、カナンに呪いが向けられる理由はわかりません。創世記は、「カナン」をカナン人たちの先祖を代表させる人物として描いています。そうすることによって、カナンとその子孫であるカナン人たちをノアから呪いの言葉を伝えられた存在として紹介しているわけです。これは、イスラエルの民にとって、カナンの地を侵略したことの正当性やカナンに対する忌避感の理由を伝えるような物語になったことでしょう。そのため、私たちは、反面教師的にこの物語を受け止める必要があるでしょう。人々の間に特定の人たちへの呪いや敵意、差別意識を引き起こしてしまう、そんな私たち人間の現実を赤裸々にこの物語は伝えているからです。言葉や態度、社会の制度や慣習によって、特定の人たちに呪いの言葉が伝えられ、特定の人たちにのみ、祝福の言葉が語られています。それは、神が願った世界や人間社会のあり方では決してありません。すべての命あるものを祝福することから、神はこの世界を形作られたため、特定の人たちを排除するような、ノアの呪いの言葉は、私たちが大切に握りしめるべき言葉ではありません。むしろ握りしめるべきは、パウロを通して伝えられたような希望の言葉です。パウロは、どのような人のうちにもキリストを見つめています(コロサイ 3:11)。キリストを通して神が共にいてくださっています。キリストを通して神を見つめ、神によって造られた尊い一人ひとりが目の前にいるという事実と私たちは出会います。私たちは何よりも、教会の交わりのうちにこの事実を知り、神によって造られた尊い一人ひとりと向き合います。教会のうちにこそ、ノアの呪いとは正反対の道が実現し、ノアの呪いの言葉への抗議と抵抗の声が響き渡っていくべきです。神が教会の歩みとこの交わりを通して、私たちがお互いの違いを乗り越えて、キリストに結ばれて共に生きることをいつも教え続け、励ましてくださいます。どうかこの場所が、お互いの違いを呪うことをはじめる場所ではなく、キリストにあってお互いを見つめて、お互いの違いを祝福し合うことをはじめていく場所であり続けますように。

    24분
  6. 初めに、神が虹をかけたから(稲葉基嗣) – 創世記 9:1–17

    8월 31일

    初めに、神が虹をかけたから(稲葉基嗣) – 創世記 9:1–17

    2025年8月31日 三位一体後第11主日 説教題:初めに、神が虹をかけたから 聖書: 創世記 9:1–17、マタイによる福音書 26:47–56、詩編 46、コロサイの信徒への手紙 3:1–4 説教者:稲葉基嗣   ----- ノアの箱舟の物語は、どのように虹ができるのかではなく、なぜ虹が空にあるのかを伝えています。人間の罪ゆえに、心を痛めながら、命が広がるこの世界に死をもたらした神が、もう二度とこのような洪水を引き起こすことはないと約束しました。ノアの箱舟の物語によれば、空に虹は、その約束のしるしでした。虹を意味する英語でrainbowは、雨(rain)とbow(弓)が組み合わされています。虹は、雨上がりに空にかかる、弓状のものなので、rainbowという単語は虹がどのようなものであるのかをよく表しています。日本語で「虹」と訳されているヘブライ語の単語も、似たような響きを持ちます。虹と訳されているヘブライ語ケシェトは、戦士たちが用いる弓を意味するからです。むしろ、その単語が意味するのは弓の方で、虹を意味する場合の方が例外的です。ですから、神が「私は雲の中に私の虹を置いた」(13節)と語った時、文字通りには、神が空に虹をかけたことよりも、弓を神が空に置いたという意味になります。それは一体、どのようなことを意味したのでしょうか。この世界に対する威嚇のしるしなのでしょうか。神が、虹について言及するとき、常に「雲の中に」と付け加えられています。神の領域である天と、人間をはじめ様々な生き物たちが暮らす領域である、地の間に浮かんでいる雲の中に神は自らの武器である弓を置き、手放しました。決して暴力によって滅ぼすことはないと、神自ら武器を手放して、約束されました。神はこの世界を威嚇し、人間の罪や悪を恐怖によって取り締まり、抑え込むことをしているわけではありません。恐怖による見せかけの平和を形作ることは決してしないと、永遠に約束します。愛と忍耐と憐れみをもって、人々に関わることを通して、神自身の弱さを用いて、神はこの世界に平和を形作ろうと願っています。この虹は、そのような神の意志を全人類・全宇宙に宣言する約束のしるしでした。この虹は、私たちが生きる現代世界にとっても、大きな意味を持つものです。振りかざした拳をおろすことができない。過剰に報復や復讐をしてしまう。そういった世界のあり方に対し、神が示したのは、神が武器を放棄することでした。それは、神からの問いかけであり、私たちへの招きでもあると思います。君も、手元にある武器や力を捨てることができるんじゃないの?ですから、私たちがたどるべき道は、明らかです。武器や自分の力を握りしめることではなく、手放していくことを選び続ける道です。手を空っぽにするならば、私たちはお互いに手を取り合えるはずです。神が雲の中に置いたあの虹は、私たちにそのような道を今も示し続けています。

    22분
  7. 箱舟の前の祭壇(稲葉基嗣) – 創世記 8:1–22

    8월 24일

    箱舟の前の祭壇(稲葉基嗣) – 創世記 8:1–22

    2025年8月24日 三位一体後第10主日 説教題:箱舟の前の祭壇 聖書: 創世記 8:1–22、マルコによる福音書 1:12–13、詩編 34、ローマの信徒への手紙 12:1–2 説教者:稲葉基嗣   ----- 創世記の物語は、ノアがカラスや鳩を放つ様子を描く際、「追い払う」や「解放する」といった意味のヘブライ語の単語を用いています。ノアはカラスや鳩が戻って来ることは期待していませんでした。大雨が過ぎ去り、水が徐々に減ってきたため、地上でのみ生活をする人間たちのペースにあわせて、鳥たちを箱舟の中にいつまでも縛り付ける必要などありませんでした。鳥たちに対するこのようなノアの姿勢を思うとき、神から委ねられた他の生き物たちとの関係を良好に保つことを大切にしてノアが箱舟で生活をしていたかがわかってきます。物事を人間中心で動かし、自分たちのやり方を押し付けようとはしませんでした。人間だけでなく、他の生き物たちが生活できる場所が取り戻され、回復する時間を彼は待ち続けました。神が良しとする時間を待ち続けました。ノアは祭壇を築き、焼き尽くすいけにえを捧げることから、箱舟から降りた後の生活を始めました。ノアはすべてを神に捧げました。神の恵みと憐れみによって、すべてのものが与えられているからこそ、ノアは箱舟を降りたときに目の前に広がっているこの世界のあらゆるものを感謝をもって、受け止めました。振り返ってみれば、カラスや鳩を放つときも、箱舟を降りるタイミングも、新しい生活を始める際も、ノアは自らの主張を貫き通すことはありませんでした。むしろ、他の被造物を配慮しながら、神のタイミングを尋ね求めながら、彼は箱舟の中で生活をし、箱舟から降りた後の生活を始めました。このようなノアの生き様は、私たちに様々な挑戦を投げかけています。私たちの生きる社会は、どうしても人間中心的な社会の作り方をしています。だからこそ、ノアの姿を見つめる時、自分とは異なる人たち、この世界でともに生きる、神によって造られた他の被造物たちを愛と憐れみをもって見つめる心が養われる必要性を思わされます。ノアは何度も立ち止まり、待ちました。自分のやり方に固執せず、神が願うふさわしいタイミングを待ち続けました。ノアは箱舟を降りた後、祭壇を築いたのでしょう。あらゆるものが神の恵みゆえに与えられていることを決して忘れないために。現代に生きる私たちにとって、箱舟の前に建てられた祭壇は礼拝に集うことです。私たちは礼拝に呼び集められることによって、自分たちがどのような存在であるのかをいつも思い出します。

    24분
  8. 8월 19일

    キリストこそ世界の救いの希望(石田学) – ローマ 15:7–13

    2025年8月17日 三位一体後第9主日 説教題:キリストこそ世界の救いの希望 聖書: ローマの信徒への手紙 15:7–13、創世記 11:1–9、詩編 117、マルコによる福音書 4:30-32 説教者:石田学   ----- 「だから」は「それゆえ」「それだから」の方が良いと思います。パウロはこの箇所でローマ書全体の結論を述べようとしているのですから。ローマ書はパウロの最後の手紙、いわばパウロの信仰と神学と働きの集大成。その手紙の結論は、しかし、驚くほどに具体的でわかりやすいものです。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。なんとわかりやすい、しかしそうすることがなんと困難な言葉でしょうか。パウロが「互いに相手を受け入れなさい」と告げる人々は、仲良しで仲間同士や利害の一致する人や、味方同士ではありません。この「相手」は、対立と争い、敵意と怒り、不信と憎しみを抱く人たちです。そういう「相手」はこの世界で無数と言ってよいほど作り出され、存在します。人と人、民族、人種、地域、身分、貧富、国家間など、分断と憎悪、差別といじめ、傲慢と蔑みが、いつもどこでも現実になってきました。互いに相手を受け入れることができないことが世界の現実であり問題です。パウロの時代、ローマのキリスト者にとってもそれは現実でした。教会の中に、ある理由で自分を強い者と誇り、弱い者と考える人を見下しました。ユダヤ人とユダヤ人ではない人々の間に差別と敵意が存在していたのでした。その現実は仕方のないことだから、それぞれに分離して別の教会になればよい。なぜパウロはこの簡単で現実的な方法をローマのキリスト者に告げなかったのか。その理由は、分断と敵意が神の御心に反する、創造の破滅と悲嘆の原因だからです。パウロはただ「互いに受け入れなさい」と命じているのではありません。「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」と大前提を告げます。なんのためにキリストは信じる者を受け入れるのでしょうか。その理由は「神の栄光のために」であることをパウロははっきりと語ります。神の栄光とは、神の御心がこの世界に表されること、つまり、神の愛、憐れみ、慈しみ、神を喜び感謝すること、それが神の栄光です。人はだれも、神の栄光を表すようにと創造されました。罪のために失われた創造の意味を、キリストが回復してくださいました。キリストに倣って互いに受け入れ合うことによって、それが実現します。キリストは和解と平和を作り、互いに受け入れ合う世界の救いの希望です。この幻・未来の望みを、パウロは聖書から三箇所引用して示すのです。でも、教会は小さく弱く、世界から見ればなんとちっぽけなことか。いくら教会で神の御心を表しても、世界にどんな影響があるというのでしょう。教会はからし種、小さくてもこの世界に存在する限り、世界に対する希望です。

    31분

소개

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