小山ナザレン教会

わたしたちが福音を信じるということは(石田学) – ローマ 15:14–21

2025年9月14日 三位一体後第13主日

説教題:わたしたちが福音を信じるということは

聖書: ローマの信徒への手紙 15:14–21、ミカ書 6:8、詩編 67、マルコによる福音書 1:14–15

説教者:石田学

 

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きょうは礼拝のはじめに、マルコ福音書1:14−15を読みました。マルコが伝える最初の主の言葉は、二つの事実と二つの命令です。「時は満ちた」「神の国は近づいた」という二つの事実に続けて、「悔い改めよ」「福音を信ぜよ」という二つの命令が続きます。「福音を信じなさい」と言われて、きっと少し困惑することでしょう。イエス様もマルコも「福音」とは何かを説明してくれないからです。不親切だからというわけではなく、福音は定義も説明もできないのです。福音とは、主イエスそのものであり、主イエスの出来事そのもの。だから主イエスに聞き、心に留め、共に生きることが必要です。そこでマルコは、福音書全体をとおして、主イエスの出来事を語ります。主イエスを説明するのではなく、主イエスと共に生きることを告げるのです。福音とは、主イエスに倣い、主と共に生き、死に、復活の希望を抱くことです。そうであれば価値観も希望も生き方そのものも、以前と同じではいられません。考えようによっては、こんなに恐ろしいことはありません。事実、マルコは主イエスと共に生き、主の復活を知った女性たちの恐れを、こう伝えて終わるのです「何も言わなかった。恐ろしかったからである」。たぶんわたしたちは昨日もきょうも明日も、同じように生きてゆきます。ごはんを食べ、勉強や仕事をし、家事をし、遊び、笑い、時に悲しみます。でも、主イエスはいつもわたしたちに「福音を信ぜよ」と呼びかけるのです。それは「わたしと共に歩め」「共に生きよ」「神の国を望め」という主の声。わたしたちが福音を信じるということは、この主の声を聞き、従うことです。パウロもそのような意味で「福音」という言葉を使いました。異邦人つまり諸国の人々に福音を伝えたパウロは自分の働きをこう語ります。「聖霊によって聖なるものとされた、御心に適う供え物となる」ことだと。「御心に適う供え物となる」という言葉は、現代人には怪しげに響きます。現代のわたしたちは自分が自由で何ものにも縛られないと考えますから。だが、考えてみればそれはなんという幻想、なんという思い込みでしょうか。この世界の欲や誰かの利害を超越する、根源的な理想と希望なしには、人は簡単にこの世界の何か・誰かに自分を捧げることになるでしょう。自分であれ自民族であれ、国家であれ、富であれ、成功であれ、そうした何かに自分を捧げることは偶像崇拝であり、対立と敵対の根源です。わたしたちの週ごとの礼拝は、神に自分を供え物として捧げることです。神に自分を捧げるとは、神に従うことであり神の御心に添う道を歩むこと、つまりキリストに従って生きることであり、それが福音を信じるということです。