小山ナザレン教会

キリストこそ世界の救いの希望(石田学) – ローマ 15:7–13

2025年8月17日 三位一体後第9主日

説教題:キリストこそ世界の救いの希望

聖書: ローマの信徒への手紙 15:7–13、創世記 11:1–9、詩編 117、マルコによる福音書 4:30-32

説教者:石田学

 

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「だから」は「それゆえ」「それだから」の方が良いと思います。パウロはこの箇所でローマ書全体の結論を述べようとしているのですから。ローマ書はパウロの最後の手紙、いわばパウロの信仰と神学と働きの集大成。その手紙の結論は、しかし、驚くほどに具体的でわかりやすいものです。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。なんとわかりやすい、しかしそうすることがなんと困難な言葉でしょうか。パウロが「互いに相手を受け入れなさい」と告げる人々は、仲良しで仲間同士や利害の一致する人や、味方同士ではありません。この「相手」は、対立と争い、敵意と怒り、不信と憎しみを抱く人たちです。そういう「相手」はこの世界で無数と言ってよいほど作り出され、存在します。人と人、民族、人種、地域、身分、貧富、国家間など、分断と憎悪、差別といじめ、傲慢と蔑みが、いつもどこでも現実になってきました。互いに相手を受け入れることができないことが世界の現実であり問題です。パウロの時代、ローマのキリスト者にとってもそれは現実でした。教会の中に、ある理由で自分を強い者と誇り、弱い者と考える人を見下しました。ユダヤ人とユダヤ人ではない人々の間に差別と敵意が存在していたのでした。その現実は仕方のないことだから、それぞれに分離して別の教会になればよい。なぜパウロはこの簡単で現実的な方法をローマのキリスト者に告げなかったのか。その理由は、分断と敵意が神の御心に反する、創造の破滅と悲嘆の原因だからです。パウロはただ「互いに受け入れなさい」と命じているのではありません。「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」と大前提を告げます。なんのためにキリストは信じる者を受け入れるのでしょうか。その理由は「神の栄光のために」であることをパウロははっきりと語ります。神の栄光とは、神の御心がこの世界に表されること、つまり、神の愛、憐れみ、慈しみ、神を喜び感謝すること、それが神の栄光です。人はだれも、神の栄光を表すようにと創造されました。罪のために失われた創造の意味を、キリストが回復してくださいました。キリストに倣って互いに受け入れ合うことによって、それが実現します。キリストは和解と平和を作り、互いに受け入れ合う世界の救いの希望です。この幻・未来の望みを、パウロは聖書から三箇所引用して示すのです。でも、教会は小さく弱く、世界から見ればなんとちっぽけなことか。いくら教会で神の御心を表しても、世界にどんな影響があるというのでしょう。教会はからし種、小さくてもこの世界に存在する限り、世界に対する希望です。