流れのほとりに

キリスト教たんぽぽ教会

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

  1. 6D AGO

    わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21章15節~19節)

    序)「君たちはどう生きるか」 ・太平洋戦争中の 1937 年に吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』が出版され、1982 年に岩波文庫として復刊されたものを私は学生時代に読んで感銘を受けた。2017 年には漫画と原文をミックスした『漫画 君たちはどう生きるか』が出ると、200 万部を超えるベストセラーとなった。2023 年に公開された宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』は第 96 回アカデミー賞長編アニメ賞ほか多数を受賞した。 1)コペル君の物語 ・主人公はおじさんからコペル君とニックネームをつけられた本田潤一君中学2年生。銀座の人だかりを見て人間が分子みたいだと言った潤一君を、地動説をとなえたコペルニクス(1473-1543)にちなんで、おじさんが「コペル君」と呼ぶようになる。上級生からにらまれた友だちと行動をともにしようと約束しながら、自分だけ逃げてしまったコペル君は、友だちを裏切ってしまったことをくやんで、ひきこもる。しかし、勇気をもっておわびの手紙を書き、友だちから受け入れられて、コペル君が立ち直る姿を描き、「君たちはどう生きるか」と最後に問うている作品。 2)ペテロはイエスさまを裏切った ・イエス様からペテロ(岩男)とニックネームをつけられて愛されたシモンは、弟子たちの筆頭格だったし、迫害の時が来ても「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ 22 章 33 節)と言い切った男だった。しかし、イエス様が捕らえられて大祭司の家で審問されている夜、中庭で炭火を起こして暖まっている人たちの中に入っていたペテロは、そこで「あなたもあの人の弟子ではないのか」と三度問われて、三度とも「弟子ではない」と否定した。 ・鶏が鳴いた時、イエス様が振りむいてペテロを見つめられたとルカは記している(ルカ 22 章 61 節)。ペテロは「外に出て行って、激しく泣いた」。 3)イエス様はペテロをどう扱われたか? ・イエス様が死んで復活されたあと、ティベリア湖畔にいる弟子たちにご自分を現わされた時の次第をヨハネは記している。ペテロは「私は漁に行く」と言い、他の者も従ったが、何も捕れなかった。夜明けにイエス様は岸辺に立たれて、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられ、その通りにすると網を引き上げられないほどの大漁になった。 ・岸辺で朝食を用意されていたイエス様は食事の後にペテロに問われた。「あなたはわたしを愛するか?」苦し紛れに「はい」と答えるペテ私たちは主の前にどう生きるか?はペテロは心を痛めて「あなたを愛しています」と告白する。イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返された。 ・傷心のペテロをイエス様は責められなかった。そうではなくて、「わたしの羊を飼いなさい」とペテロを前に向けて押し出された。ペテロに心の傷跡は残るが、イエス様の大きな愛に包まれて立ち直り、弟子として死に至るまで強く歩み抜いた。 結)私たちは主の前にどう生きるか? ・後年ペテロは「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ 3章 15節)と手紙に書く人になった。

    36 min
  2. NOV 2

    さあ、福音しよう!(ルカの福音書4章16節~21節)

    序)「福音」とは待ち望んでいた良い報せ ・「福音(ユーアンゲリオン:良い知らせ)」はただの情報ではない。福音が届いたところでは世界が変わり、宴や祭りが開かれることになる。それゆえ「福音」には動詞形「福音する」がある。 1)貧しい人に「福音する」のが油注がれた者の使命 ・ルカ 4 章 18 節は、油注がれた者(メシア)であるイエス様の使命を語る。 ・ルカはこのユーアンゲリゾーを多用し、イエス様の働きと使徒たちの働きを同じ言葉で語る。(参考:使徒 5:42) ・聖霊という「油注がれた者」である私たちも、同じ使命に立っている。 ・「貧しい人(プトーコイ)」は経済的困窮者を意味するが、当時の文脈ではそれ以上の内容をもつ。捕囚され、奴隷になっている者という意味。 ⇒バビロン捕囚から物理的には帰還していたも、未だに帝国の奴隷であり、神に赦されていないと人々は感じながら生きていた。だから福音は「捕囚の終わり」としての解放を告げるものだった。 2)「貧しい人に福音する」の中身 ・「捕らわれ人には解放を」…社会全体が刑務所状態だったユダヤ社会において「解放」=「赦し」とは、帝国の奴隷でも罪の奴隷でもない生き方へと人々を招く。罪の因果にし配される世界は断ち切られた! ・「目の見えない人」…文字通りの意味ももち、イエス様の働きは実際に多くの目の見えない人を癒した。そこには霊的な盲目状態からの癒しの象徴がこめられている。「福音する」ことによって神様がわかるようになる。 ・「虐げられている人を自由の身とし」…「虐待された人」は世界の認識が歪んでしまう。安心安全を感じられないし、存在価値を否定されているので、どうにかして存在価値を見出さなくてはいけないともがく。けれども、そこで用いる方法は、決して満足できない方法ばかり。「福音する」とはそういう人を「自由の中に」一緒に連れて行くこと。 ・「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」という祝いの時の別称。ヨベルは、一切の負債が帳消しになり、失敗のせいで失われたものが自分の手に返ってくる時。ヨベルの特別な犠牲の血により、この解放が 50 年に一度起こるのが旧約聖書の定め。 ⇒イエス様の十字架の血が、本当のヨベルをもたらした。永遠の解放が私たちに与えられている。私たちの人生、いのちはもはや誰にも奪われない。 ・ヨベルの祝いに続いて「仮庵の祭り」が続く。それは神の国の完成を意味する。今、私たちはヨベルから仮庵の祭りの間を生きている。 結)神の民こそ「福音する/される」必要がある ・私たちが福音を喜ぶとき、その喜びの輪が地域へと広がる。

    31 min
  3. OCT 26

    望みをもってうめく(コリント人への手紙第二 5章1節~4節)

    序)「うめき」か「ぼやき」か ・人間は日々、内面において成長することができる。しかし停滞することもある。自分の人生を引き受けると現状打破を試みる「うめき」が、外部要因のせいにしていると「ぼやき」が多くなる。 ・望ましくない出来事に直面するときも、一旦は落ち込むことがあっても成長することができる。 1)死に吞み込まれないために ・「もう齢なので(成長はしなくてもいい)」と言ってしまうなら、死を前にして、心が死に吞み込まれてしまっている。 ・福音は、死を突破して生きる道を告げる。主イエスを信じる者は、主イエスと同じいのちを与えられ、よみがえりを待つ。今のいのち(肉体)がそのまま継続するわけではないが、連続性ももっている。 ・よみがえりの希望は、愛する家族との再会の希望にとどまらず、今日を生きる私たちを成長に向けて励ますモチベーションである。 2)成長は自動的には起こらない ・Ⅱコリント 4:16「外なる人」=この身体のこと。「内なる人は日々新しくされている」とパウロは証しする。しかし、これは「クリスチャンなら誰でも」ではない。パウロは「あなたがたはどうか」と発破をかけている。 ・「地上の住まいである幕屋(=テント)」=この身体のこと。このいのちの後に与えられる「よみがえりの身体」は「建物」と表現される。 ・よみがえりの身体において罪からの解放は一斉に与えられるが、個性(成長の差)はなくならない。 3)成長のための努力(うめき)には報いがある ・Ⅱコリント 5:10「善であれ悪であれ…報いを受ける」とある。「悪」と訳されているが、積極的な悪ではなく「善」に至らない「普通」の意味。現状維持レベルのこと。パウロは私たちの成長の度合いに従って報いがあり、それが「よみがえりの身体」に反映されると教えている。 ・「神が下さる『建物』」という表現には「建築中」のニュアンスがある。 ・パウロが語るのは、肉体が朽ちて、衰えていくことに頓着しないで、その苦しさの中で、それをも成長の糧にして生きていくことである。 ・「裸の状態」とは赤ん坊の姿でヨブ 1:21 を乗り越えた表現。内面の成長という宝は、次の世に持っていける。 結)死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために ・よみがえりの希望を、成長の力に変えて人生をまっとうするとき、神のいのちが証しされる。 ・成長は人との比較ではない。自分の人生をどう生きるかが問われる。

    37 min
  4. OCT 19

    主をほめたたえよ~ハレルヤ(詩篇135篇1節~21節)

    序)心に賛美の火を ・勢いよく火をあげる焚火、赤々と熱を帯びる炭火、どちらにも魅力がある。自分の心にある主への賛美の熱はどんなだろうか。 1)主をほめたたえよ(1 節~4 節):にぎやかに、ほめ歌え ・「ハレルヤ」は「ハレル(ほめ歌う)」と「ヤー(主:ヤーハウェ)」が組み合わされた言葉 ・詩篇 135篇は、過越の祭りの際に歌われた歌の一つだったと言われている。 ・2 節では、特に「主の庭の中にいる人々」に向かって呼びかけられ、普段から主に使える者へのねぎらいの思いがこめられている。 ・主をほめたたえることは、麗しく好ましいとなので、呼びかけられる。 ・主はヤコブ(イスラエル)をご自分の宝として選ばれたから。 2)思い巡らす(5 節~18 節) ・麗しい主を知っている(=体験として、腹落ちして)「私」 ・空を見上げ、その不思議さに感動しながら、礼拝する。(現在) ・8 節~イスラエルの具体的な歴史(出エジプト)を回顧する。(過去) ・人の手によって作り出された神々と、エジプトの真ん中にしるしと奇跡を送られた主との対比が鮮やかに描き出される。 ・13 節~詩人の心は「未来」に向かう。これから先、子どもたち、孫たち、さらに先までも、いつくしみあわれみ導いてくださるという確信へ 3)主を祝福せよ(19 節~21 節)」しずかに、ほめ讃えよ ・19 節の「ほめたたえよ」は始まり「ほめたたえよ(ハーラル praise)」とは違う「バーラク bless」という言葉。 →静かに祈り心をもって賛美するイメージが多少強くなる。沈黙をも伴う賛美への招き ・主の大庭に集うすべての人々から、神殿の中庭に視点が移ったのち、主を恐れるすべての者たちへと、賛美の呼びかけが広げられる。 結)主への賛美心を携えて ・焚火のように賛美できる日も、賛美が消え入りそうになる日もある。 ・私たちの心の火は消えることはないが、他の火と触れることで、再び赤々と燃えだす。共に集まる礼拝において、主の偉大さに触れ、主への賛美に触れて、再び熱くしていただく。この恵みに感謝して歩もう。

    30 min
  5. OCT 12

    神の国は縁の下に(マルコの福音書10章32節~45節)

    序)メッセージタイトルの悩み ・今回のタイトルに至るまで、いろいろなアイデアが出ては消えた。 1)「ざわつく弟子たち」 ・エルサレムにはイエス様を敵視する人たちがおり、イエス様の不吉な発言もあって、弟子たちは「驚きと恐れ」の中にあった。 ・「人の子」という言い回しは単に「人間」を指すことも「救い主」を指すこともできる曖昧な用語であり、受難、復活、昇天に関わる発言をイエス様は「わたし」を主語にして話されなかった。それで「人の子の受難」は弟子たちにとって仲間の誰かが犠牲になることを予期させた。 ・「よみがえる」という動詞は「起き上がる」という意味が中心なので、死者の復活を連想することは簡単ではなかった。 ・そういう中でヤコブとヨハネが神の国の No.2,3 の座を願い出て、さらに弟子たちは炎上する。彼らは自分が犠牲になることを逃れられる確約がほしかったのかもしれない。 2)「かみ合わない神の国」 ・「杯(苦杯)」や「バプテスマ(大水に押し流され水没すること)」は、大きな苦しみを経験することを指す。イエス様としては、十字架(殉教)のことを意味していたが、ヤコブとヨハネが考えていたのは「仲間の死を乗り越えること」だった可能性が高い。 ・事実、ヤコブとヨハネは最初の殉教者(ヤコブ)と兄弟を失う最初の者になる。しかし彼ら自身はそのことを微塵も理解していない。 ・弟子たちの考える神の国は「誰が支配するか」に関心がある。イエスの弟子である自分たちならうまくできるというのが彼らの前提。 ・イエス様の考える神の国は「どのように支配するのか」に関心があり「支配する」ことの意味を塗り替えることが目指されている。 ・「横柄なふるまい」「権力をふるう」という動作に善悪の是非はない。 ・イエス様は上下関係の上に立ち、思い通りに事を運ぶために強制力を発動するというシステムそのものを解体しようとされる。それが「仕える者」「しもべ」としての神の国の(革命的な)あり方である。 ・民主的に決めるとしても、強制力を発動するなら神の国は遠ざかる。 3)「神の国は縁の下に」 ・「そうであってはなりません」→「そうはなりません」、「仕える者になりなさい」→「仕える者になるだろう」というニュアンスである。 ・イエス様は弟子たちに、神の国のあり方を強制するのではなく、自らやって見せ影響を与える。(これは「十のことば」も同じ。) ・イエス様は天におられると同時に、縁の下から支えてくださっている。

    34 min
  6. OCT 5

    【食】神の国の食卓に着いて(ルカの福音書22章28節~30節)

    序)聖書と「食」のモチーフ ・聖書では約 1000 回、「食べる」という意味の動詞が使われている。 ・聖書の「食べること」は「生きること」や「いのち」の象徴。 ・聖餐式も教会において大切な意味がある。聖餐式の意味と希望を思いめぐらす。 1)教会で食べること:聖餐 ・「わたしを覚えてこれを行いなさい」という主の命令に基づいて聖餐式が行われている。 ・ルカ 22章では、イエス様は弟子たちを「使徒」と呼び、食卓が宣教の出発点であることが意識された。 ・聖餐の言葉の前に「過越の食事」があり、聖餐は過越と深く結びついた意味を持つ。 2)過越の食事から聖餐式へ ・過越の食事はイスラエルの救いを記憶するためであり、イエス様はそれを弟子たちと共にすることを切に願った。 ・十字架と復活によって過越の約束は成就し、新しい契約の食事「聖餐」へと更新された。 ・聖餐はイエス様の救いの成就を覚える時である。当たり前ではなく、イエス様がともに食卓に着いておられることを覚えて。 3)聖餐から神の国の食卓へ ・イエス様の再臨によって神の国は完成し、私たちはイエス様とともに食卓を囲む。聖餐はその完成の希望を示す食事である。 ・イエス様は私たちに神の国の王権を委ねてくださるという約束があり、神の国の食卓にはすべての民が招かれている。 ・弟子たちや私たちの弱さにもかかわらず、イエス様は受け入れてくださり、食卓と王権を約束してくださっている。 ・「食卓に着く者」ではなく「給仕する者」として生きることが、神の国の食卓に招かれた者の歩みである。 結)神の国の食卓を待ち望み、給仕する者として歩む ・聖餐を通して思い起こすのは、過去の十字架の贖いだけではなく、神の国の食卓にイエス様とともにつく希望。 ・今ここで私たちに与えられている使命は、隣人に仕える「給仕する者」として生きること。 ・神の国の食卓の栄光を望み見つつ、今週も「給仕する者」として、主と共に歩んでいきたい。

    32 min
  7. SEP 28

    身軽に旅する難しさ(マルコの福音書10章23節~31節)

    序)「旅」の比喩のポイント ・私たちの人生は「旅」であり私たちは「旅人・寄留者」であるが、それは「天国への旅」ではない。 ・アブラハムは相続地を「所有者」としてではなく「旅人」として生きた。「はるか遠く(へブル 11:13)」は場所ではなく時間的な距離である。 ・「天の〇〇」という表現は「人の手では届かない高み」を意味する。 1)旅を忘れやすい私たち ・「神の国はこの地上に実現する」ことだけが主張され「旅」が欠落すると、自分たちが「神の国を建てる」ことができるという錯覚に陥る。 ・金持ちの青年は、土地をもち、そこで律法を行うことを「握りしめた」結果、旅を見失った信仰に陥っていた。 2)「神の国に入る」とはどういう意味か ・「神の国」=「天国」なら「入る」の意味はわかりやすいが、そうではない。「神の国に入る」とは「神の御心を実現していく状態に入る」こと。 ・「針の穴」という名前の門がエルサレムにあったという解釈は事実無根。 ・「神の国に入る」とは「神の国状態に至る」と言い換えることができる。 ・「神の国を相続する(受け継ぐ)」というのは、神の国状態からもはや外れることがない状態になること(=永遠のいのち)である。 3)「神の国状態に至る」難しさ ・「富(財産とは違う言葉が使われている)」をもつと、富を守ることに心が向きやすく、神に信頼し、御心を受け止めることが妨げられやすい。 ・「神の国が回復され、そこに入る人が正しい状態(義)に戻される」ことを弟子たちは「救い」と考えた。だから金持ちはその筆頭と見なされていた。しかしイエス様は弟子たち(当時の一般的期待)をひっくり返す。 ・難しいが不可能ではないことに注意。イエス様のポイントは「神によって」可能になるということにある。 ・ペテロが弟子の代表として自分たちが「手放してきたもの」を並べて「前のめり」に喜びを表現するが、イエス様の応答は謎めいている。 ・「捨てる」と訳された言葉は「手放す(握りしめない)」の意味。積極的な遺棄ではない。これは旅人の姿勢。 ・「手放した」弟子たちに百倍(誇張表現)が約束される。しかし「迫害とともに」である。そして「受けたもの」を再び「握る」可能性はある。エルサレム教会は A.D.70 年のエルサレム陥落ですべてを失う。 結)「究極の一歩手前の真剣さ」で生きる訓練への招き ・神に従い、その祝福を味わいながら、なお身軽な旅人であること!

    41 min
  8. SEP 21

    神の国を受け継ぐ旅(マルコの福音書10章17節~22節)

    序)「天国止まりの福音」ではわからないこと ・「何をしたら」という問いかけは正しい問いなのか。 ・「持っている物をすべて売り払って」というのは普遍的か。 1)この男性はなぜ一人で走って来たのか? ・「永遠のいのちを受け継ぐには?」=「神の国を受け継ぐには?」であり、「天国に行くにはどうしたらいいか」ではない。 ・「受け継ぐ」という言葉は土地所有に関する堅い言葉。(マタイ 5:5 参照) ・当時の成人男性は走らないから、よほどの緊急事態である。一定の資産家なのに同行者なしで、一人で来るということにも違和感がある。 →彼が所有していた土地(畑)に何かトラブルが起こり、土地を手放さなくてはいけない危機的状況が迫っていたと考えると説明できる。 ・約束の地を所有し守っていくことは、信仰的な重要性をもっており、神の国の到来に貢献することだと考えられた。 →この男性の求めは「御国の到来にどうしたら用いられるか」であり、目下抱えているピンチを乗り切る方法を求めてイエスのもとに来たのである。 2)耳を疑うイエス様のことば ・約束の地で「十のことば」を実行するなら、神の国は現実になると旧約聖書は語る。それゆえ男性の問いとイエスの答えは当たり前のやりとり。 ・「守ってきました」との自負が問題視されることもあるが、イエス様は彼を「いつくしんで(アガペー)」見ている。 ・彼が守ろうと必死になっているものを手放すようにイエス様は言われた。 ・「天に宝を持つ」とは「御国の到来に貢献できる」という意味。 →イエス様は「土地を守ることなしに、神の国に貢献することはできない」という信念を手放しても、御国に貢献できることを教えておられる。 ・土地を守ることで、貧しい人たちを長期的に養える。土地を売ったら短期的に養えても続かない。しかしもっと長期に考えれば神様は土地を返してくださるお方である。土地は神のものである。 ・「わたしについて来なさい」とは弟子としての正式な招き。手放した後の生活をイエス様が責任をもつと語っている。 3)神の国を受け継ぐ旅 ・17 節「道に出ていかれると」は「旅に出ようとされると」と訳せる。この動詞の主語はイエス様だけ。十字架において、すべてを父の手に委ねて、いのちを投げ出し、神の国を受け継ぐ旅へとイエス様は踏み出す。そこにこの男性も招かれた。必要なのは「良い神」への信頼のみ。 結)「こうでなければ」を手放せば ・信仰人生は「旅」である。危機をチャンスに、大胆に、柔軟に従おう。

    46 min

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キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

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