2025年9月7日 三位一体後第12主日
説教題:呪いではなく、祝福の始まりの場所となるように
聖書: 創世記 9:18–29、マタイによる福音書 15:21–28、詩編 82、コロサイの信徒への手紙 3:5–12
説教者:稲葉基嗣
-----
なぜハムにではなく、カナンに呪いの言葉が伝えられるのでしょうか。そもそも、ノアに対するハムの行いも何が問題であったのかさえわかりません。ノアの裸を見たからでしょうか。ハムが父親が酔って裸になっていることを兄弟たちに伝えたからなのでしょうか。文化的には、父親の権威が貶められたことが理由だと想定することは可能ですが、だからと言って、ハムではなく、カナンに呪いが向けられる理由はわかりません。創世記は、「カナン」をカナン人たちの先祖を代表させる人物として描いています。そうすることによって、カナンとその子孫であるカナン人たちをノアから呪いの言葉を伝えられた存在として紹介しているわけです。これは、イスラエルの民にとって、カナンの地を侵略したことの正当性やカナンに対する忌避感の理由を伝えるような物語になったことでしょう。そのため、私たちは、反面教師的にこの物語を受け止める必要があるでしょう。人々の間に特定の人たちへの呪いや敵意、差別意識を引き起こしてしまう、そんな私たち人間の現実を赤裸々にこの物語は伝えているからです。言葉や態度、社会の制度や慣習によって、特定の人たちに呪いの言葉が伝えられ、特定の人たちにのみ、祝福の言葉が語られています。それは、神が願った世界や人間社会のあり方では決してありません。すべての命あるものを祝福することから、神はこの世界を形作られたため、特定の人たちを排除するような、ノアの呪いの言葉は、私たちが大切に握りしめるべき言葉ではありません。むしろ握りしめるべきは、パウロを通して伝えられたような希望の言葉です。パウロは、どのような人のうちにもキリストを見つめています(コロサイ 3:11)。キリストを通して神が共にいてくださっています。キリストを通して神を見つめ、神によって造られた尊い一人ひとりが目の前にいるという事実と私たちは出会います。私たちは何よりも、教会の交わりのうちにこの事実を知り、神によって造られた尊い一人ひとりと向き合います。教会のうちにこそ、ノアの呪いとは正反対の道が実現し、ノアの呪いの言葉への抗議と抵抗の声が響き渡っていくべきです。神が教会の歩みとこの交わりを通して、私たちがお互いの違いを乗り越えて、キリストに結ばれて共に生きることをいつも教え続け、励ましてくださいます。どうかこの場所が、お互いの違いを呪うことをはじめる場所ではなく、キリストにあってお互いを見つめて、お互いの違いを祝福し合うことをはじめていく場所であり続けますように。
Thông Tin
- Chương trình
- Tần suấtHằng tuần
- Đã xuất bảnlúc 07:35 UTC 7 tháng 9, 2025
- Thời lượng24 phút
- Xếp hạngSạch