天理教の時間「家族円満」

TENRIKYO

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

  1. 4D AGO

    親孝行ってありがたい

    親孝行ってありがたい 福岡県在住  内山 真太朗 以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学3年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドOBの私に連絡をしてきてくれたのです。 しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。 その年の5月、親子3人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで3人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。 次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます!」と二つ返事で参加してくれることになりました。 本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。 天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。 9月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。 え?あれだけ感動してたのに、どうして?と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。 「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。 私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。 私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。 「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。 「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」 正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。 よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。 結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。 それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。 「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。 一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです!」 お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。 この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。 その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。 話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで3カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。 「私がこんな思いになれたのは、中学3年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。 お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。 人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。 私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。 忘れていいこと悪いこと 物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。 忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。 これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。 そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。 神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。 「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」(M31・5・9) それ故に、 「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」(M23・7・7) と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。 さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、 「こ

  2. OCT 24

    おじいちゃんの種

    おじいちゃんの種 兵庫県在住  旭 和世 親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。 子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。 そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。 ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの?」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。 私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。 私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。 そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子3人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。 その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。 毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。 それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。 そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。 現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。 姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね~」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。 長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る!」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。 こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。 そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。 「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。 だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。 そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。 その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」 私は、「へえ~、そうだったの? 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった~」と驚いてしまいました。 そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。 『まいたるたねハみなはへる』(七下り目 八ッ) 「あ~、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。 天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』(M33.4.16補遺)とあります。 神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。 この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。 けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。 自分一人で 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、   きゝたくバたつねくるならゆてきかそ  よろづいさいのもとのいんねん (一 6) とのお歌があります。 元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。 そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。 手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、    むりにどうせといはんでな   そこはめい/\のむねしだい (七下り目 六ッ)    むりにこいとハいはんでな   いづれだん/\つきくるで (十二下り目 六ッ) とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。 教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞か

  3. OCT 17

    低いやさしい心

    低いやさしい心  兵庫県在住  旭 和世 私には「こんな人って本当にいてるんや~」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。 私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです! 父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか~?と、いまだに衝撃を受け続けています。 父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。 父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう!」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。 天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。 「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。 父がある時こんな事を聞かせてくれました。 「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな~」 そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。 「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。 「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。 というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。 そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです! すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ~!じぃじ~!」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな~、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。 当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや~」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。 今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。 それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。 子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。 優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。 そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。 若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。 「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。 それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。 これは神様に申し訳ない! 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない!と思い当たりました。 教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない?」と誘って下さいました。 願ってもない提案に「ぜひ!」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。 それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている! と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。 「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。 自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。 父母に連れられて この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。 「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」(「おさしづ」M33・11・16) ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。 教祖をめぐって、このような逸話が残されています。 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。 それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、 「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」 と仰せられました。 このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。(教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」) 四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、

  4. OCT 10

    最後のギュー

    最後のギュー 岡山県在住  山﨑 石根 私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。 信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。 私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。 さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。 報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。 ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。 賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。 その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。 私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。 今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。 すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。 父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。 さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。 6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。 しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。 お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。 母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。 また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。 さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。 「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。 さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き!」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな?」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。 「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」 今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、5月5日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き!」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や~」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。 妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。 妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし!」と姉と妹から異議が唱えられました。 「ホンマやね。みんな、ありがとう」 今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。 なにかなハんとゆハんてな 教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。 三下り目に、  六ツ むりなねがひはしてくれな    ひとすぢごゝろになりてこい  七ツ なんでもこれからひとすぢに    かみにもたれてゆきまする とあります。 このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。 それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。 しかし教祖は、どん

  5. OCT 3

    記憶に残る活動を

    記憶に残る活動を                    埼玉県在住  関根 健一  2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。  長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。  小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。  長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。  一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。  2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。 たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。 こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。 「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか?」  野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。  そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。 「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」  私はこの言葉に深く納得しました。  どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。  さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。 プログラムの中で、教祖が現身(うつしみ)を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。 その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。 上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Aさんと、私より少し年上と思われる女性Bさん、そして私の三人でした。 AさんもBさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Aさんはこうおっしゃいました。 「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」  その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。 「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」 するとAさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。 そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。 その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。 残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。 だけど有難い「ノミのジャンプ」  ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。  ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。  人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。 私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。  最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。 そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。 そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。 それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族

  6. SEP 26

    砂を噛む日々(後編)

    砂を噛む日々(後編)                     助産師  目黒 和加子 商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。 空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90%の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。 理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。 実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。 そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。 「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」  新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。 ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。 実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが3才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。 参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。 京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。 「あ~よかった!」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。 その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。 そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。 空ちゃんの3才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。 「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」  下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク&バッグせえへんかったん?」  マスク&バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。 「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」 「もし院長さんを呼んでたら、マスク&バッグしたと思うか?」 「はい、100%したと思います」 「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク&バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外! やったらあかんのや。 肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク&バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」 瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。 「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク&バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。 空ちゃんが3才になるまで勤め続けていなかったら、A先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、A先生の前でわんわん泣きました。 数日後、空ちゃんは3才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。 すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。 また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って!』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。 そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。 壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。 クサはむさいもの  人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。  しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。  むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。  明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。  教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、 「オタネさん、クサは、むさいものやなあ」 と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。  タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖

  7. SEP 19

    砂を嚙む日々(前編)

    砂を噛む日々(前編)                     助産師  目黒 和加子  ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。  今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。 担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美(うえの・ゆみ)さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。  薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空(そら)ちゃんと名前がついています。  胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後2時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。  しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。  空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90%。保育器に入れ、酸素を与えると94%まで上昇しました。 「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95%になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64%まで低下したのです。 「64%!ありえない!」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。 しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。 「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。  出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血(ぼたいけつ)を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。 「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」  空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。 「こうなったら神さんしかない!」 家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。 24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。 「やっぱり神さんしかない!」 家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。  その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。 72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命 の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。 院長は「酸素飽和度が64%まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。 それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので3歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。  しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。 私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。 その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。 早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。 思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ!」と気づいたのです。  リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で 人の目と神様の目  私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。  お言葉に、 このせかい一れつみゑる月日なら   とこの事でもしらぬ事なし   (八 51)   (この世界一れつ見える月日なら、どこの事でも知らぬ事なし) とあります。 この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。  親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。 教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。  このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。 なにもかも月日しはいをするからハ   をふきちいさいゆうでないぞや  (七 14)   (何もかも月日支配をするからは、大きい小さい言うでないぞや) 親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、

  8. SEP 12

    人生100年時代

    人生100年時代 千葉県在住  中臺 眞治 5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか?」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。 最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。 元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。 こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。 厚生労働省が発表した令和6年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。 高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。 例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。 その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。 急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。 困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。 この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。 また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。 少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。 また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。 天理教の原典「おふでさき」では、   このたすけ百十五才ぢよみよと  さだめつけたい神の一ぢよ (三 100) と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。 昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。 私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。 行いに表してこそ 思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。 そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。 親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。 しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ!」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。 教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。   月日にハたん/\みへるみちすぢに  こわきあふなきみちがあるので (七 7)   月日よりそのみちはやくしらそふと  をもてしんバいしているとこそ (七 8)   にんけんのわが子をもうもをなぢ事  こわきあふなきみちをあんぢる (七 9)   それしらすみな一れつハめへ/\に  みなうゝかりとくらしいるなり (七 10) この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。 信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。 (終)

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

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