流れのほとりに

望みをもってうめく(コリント人への手紙第二 5章1節~4節)

序)「うめき」か「ぼやき」か

・人間は日々、内面において成長することができる。しかし停滞することもある。自分の人生を引き受けると現状打破を試みる「うめき」が、外部要因のせいにしていると「ぼやき」が多くなる。

・望ましくない出来事に直面するときも、一旦は落ち込むことがあっても成長することができる。

1)死に吞み込まれないために

・「もう齢なので(成長はしなくてもいい)」と言ってしまうなら、死を前にして、心が死に吞み込まれてしまっている。

・福音は、死を突破して生きる道を告げる。主イエスを信じる者は、主イエスと同じいのちを与えられ、よみがえりを待つ。今のいのち(肉体)がそのまま継続するわけではないが、連続性ももっている。

・よみがえりの希望は、愛する家族との再会の希望にとどまらず、今日を生きる私たちを成長に向けて励ますモチベーションである。

2)成長は自動的には起こらない

・Ⅱコリント 4:16「外なる人」=この身体のこと。「内なる人は日々新しくされている」とパウロは証しする。しかし、これは「クリスチャンなら誰でも」ではない。パウロは「あなたがたはどうか」と発破をかけている。

・「地上の住まいである幕屋(=テント)」=この身体のこと。このいのちの後に与えられる「よみがえりの身体」は「建物」と表現される。

・よみがえりの身体において罪からの解放は一斉に与えられるが、個性(成長の差)はなくならない。

3)成長のための努力(うめき)には報いがある

・Ⅱコリント 5:10「善であれ悪であれ…報いを受ける」とある。「悪」と訳されているが、積極的な悪ではなく「善」に至らない「普通」の意味。現状維持レベルのこと。パウロは私たちの成長の度合いに従って報いがあり、それが「よみがえりの身体」に反映されると教えている。

・「神が下さる『建物』」という表現には「建築中」のニュアンスがある。

・パウロが語るのは、肉体が朽ちて、衰えていくことに頓着しないで、その苦しさの中で、それをも成長の糧にして生きていくことである。

・「裸の状態」とは赤ん坊の姿でヨブ 1:21 を乗り越えた表現。内面の成長という宝は、次の世に持っていける。

結)死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために

・よみがえりの希望を、成長の力に変えて人生をまっとうするとき、神のいのちが証しされる。

・成長は人との比較ではない。自分の人生をどう生きるかが問われる。