流れのほとりに

神の国は縁の下に(マルコの福音書10章32節~45節)

序)メッセージタイトルの悩み

・今回のタイトルに至るまで、いろいろなアイデアが出ては消えた。

1)「ざわつく弟子たち」

・エルサレムにはイエス様を敵視する人たちがおり、イエス様の不吉な発言もあって、弟子たちは「驚きと恐れ」の中にあった。

・「人の子」という言い回しは単に「人間」を指すことも「救い主」を指すこともできる曖昧な用語であり、受難、復活、昇天に関わる発言をイエス様は「わたし」を主語にして話されなかった。それで「人の子の受難」は弟子たちにとって仲間の誰かが犠牲になることを予期させた。

・「よみがえる」という動詞は「起き上がる」という意味が中心なので、死者の復活を連想することは簡単ではなかった。

・そういう中でヤコブとヨハネが神の国の No.2,3 の座を願い出て、さらに弟子たちは炎上する。彼らは自分が犠牲になることを逃れられる確約がほしかったのかもしれない。

2)「かみ合わない神の国」

・「杯(苦杯)」や「バプテスマ(大水に押し流され水没すること)」は、大きな苦しみを経験することを指す。イエス様としては、十字架(殉教)のことを意味していたが、ヤコブとヨハネが考えていたのは「仲間の死を乗り越えること」だった可能性が高い。

・事実、ヤコブとヨハネは最初の殉教者(ヤコブ)と兄弟を失う最初の者になる。しかし彼ら自身はそのことを微塵も理解していない。

・弟子たちの考える神の国は「誰が支配するか」に関心がある。イエスの弟子である自分たちならうまくできるというのが彼らの前提。

・イエス様の考える神の国は「どのように支配するのか」に関心があり「支配する」ことの意味を塗り替えることが目指されている。

・「横柄なふるまい」「権力をふるう」という動作に善悪の是非はない。

・イエス様は上下関係の上に立ち、思い通りに事を運ぶために強制力を発動するというシステムそのものを解体しようとされる。それが「仕える者」「しもべ」としての神の国の(革命的な)あり方である。

・民主的に決めるとしても、強制力を発動するなら神の国は遠ざかる。

3)「神の国は縁の下に」

・「そうであってはなりません」→「そうはなりません」、「仕える者になりなさい」→「仕える者になるだろう」というニュアンスである。

・イエス様は弟子たちに、神の国のあり方を強制するのではなく、自らやって見せ影響を与える。(これは「十のことば」も同じ。)

・イエス様は天におられると同時に、縁の下から支えてくださっている。