流れのほとりに

キリスト教たんぽぽ教会

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

  1. 3일 전

    【食】神の国の食卓に着いて(ルカの福音書22章28節~30節)

    序)聖書と「食」のモチーフ ・聖書では約 1000 回、「食べる」という意味の動詞が使われている。 ・聖書の「食べること」は「生きること」や「いのち」の象徴。 ・聖餐式も教会において大切な意味がある。聖餐式の意味と希望を思いめぐらす。 1)教会で食べること:聖餐 ・「わたしを覚えてこれを行いなさい」という主の命令に基づいて聖餐式が行われている。 ・ルカ 22章では、イエス様は弟子たちを「使徒」と呼び、食卓が宣教の出発点であることが意識された。 ・聖餐の言葉の前に「過越の食事」があり、聖餐は過越と深く結びついた意味を持つ。 2)過越の食事から聖餐式へ ・過越の食事はイスラエルの救いを記憶するためであり、イエス様はそれを弟子たちと共にすることを切に願った。 ・十字架と復活によって過越の約束は成就し、新しい契約の食事「聖餐」へと更新された。 ・聖餐はイエス様の救いの成就を覚える時である。当たり前ではなく、イエス様がともに食卓に着いておられることを覚えて。 3)聖餐から神の国の食卓へ ・イエス様の再臨によって神の国は完成し、私たちはイエス様とともに食卓を囲む。聖餐はその完成の希望を示す食事である。 ・イエス様は私たちに神の国の王権を委ねてくださるという約束があり、神の国の食卓にはすべての民が招かれている。 ・弟子たちや私たちの弱さにもかかわらず、イエス様は受け入れてくださり、食卓と王権を約束してくださっている。 ・「食卓に着く者」ではなく「給仕する者」として生きることが、神の国の食卓に招かれた者の歩みである。 結)神の国の食卓を待ち望み、給仕する者として歩む ・聖餐を通して思い起こすのは、過去の十字架の贖いだけではなく、神の国の食卓にイエス様とともにつく希望。 ・今ここで私たちに与えられている使命は、隣人に仕える「給仕する者」として生きること。 ・神の国の食卓の栄光を望み見つつ、今週も「給仕する者」として、主と共に歩んでいきたい。

    32분
  2. 9월 28일

    身軽に旅する難しさ(マルコの福音書10章23節~31節)

    序)「旅」の比喩のポイント ・私たちの人生は「旅」であり私たちは「旅人・寄留者」であるが、それは「天国への旅」ではない。 ・アブラハムは相続地を「所有者」としてではなく「旅人」として生きた。「はるか遠く(へブル 11:13)」は場所ではなく時間的な距離である。 ・「天の〇〇」という表現は「人の手では届かない高み」を意味する。 1)旅を忘れやすい私たち ・「神の国はこの地上に実現する」ことだけが主張され「旅」が欠落すると、自分たちが「神の国を建てる」ことができるという錯覚に陥る。 ・金持ちの青年は、土地をもち、そこで律法を行うことを「握りしめた」結果、旅を見失った信仰に陥っていた。 2)「神の国に入る」とはどういう意味か ・「神の国」=「天国」なら「入る」の意味はわかりやすいが、そうではない。「神の国に入る」とは「神の御心を実現していく状態に入る」こと。 ・「針の穴」という名前の門がエルサレムにあったという解釈は事実無根。 ・「神の国に入る」とは「神の国状態に至る」と言い換えることができる。 ・「神の国を相続する(受け継ぐ)」というのは、神の国状態からもはや外れることがない状態になること(=永遠のいのち)である。 3)「神の国状態に至る」難しさ ・「富(財産とは違う言葉が使われている)」をもつと、富を守ることに心が向きやすく、神に信頼し、御心を受け止めることが妨げられやすい。 ・「神の国が回復され、そこに入る人が正しい状態(義)に戻される」ことを弟子たちは「救い」と考えた。だから金持ちはその筆頭と見なされていた。しかしイエス様は弟子たち(当時の一般的期待)をひっくり返す。 ・難しいが不可能ではないことに注意。イエス様のポイントは「神によって」可能になるということにある。 ・ペテロが弟子の代表として自分たちが「手放してきたもの」を並べて「前のめり」に喜びを表現するが、イエス様の応答は謎めいている。 ・「捨てる」と訳された言葉は「手放す(握りしめない)」の意味。積極的な遺棄ではない。これは旅人の姿勢。 ・「手放した」弟子たちに百倍(誇張表現)が約束される。しかし「迫害とともに」である。そして「受けたもの」を再び「握る」可能性はある。エルサレム教会は A.D.70 年のエルサレム陥落ですべてを失う。 結)「究極の一歩手前の真剣さ」で生きる訓練への招き ・神に従い、その祝福を味わいながら、なお身軽な旅人であること!

    41분
  3. 9월 21일

    神の国を受け継ぐ旅(マルコの福音書10章17節~22節)

    序)「天国止まりの福音」ではわからないこと ・「何をしたら」という問いかけは正しい問いなのか。 ・「持っている物をすべて売り払って」というのは普遍的か。 1)この男性はなぜ一人で走って来たのか? ・「永遠のいのちを受け継ぐには?」=「神の国を受け継ぐには?」であり、「天国に行くにはどうしたらいいか」ではない。 ・「受け継ぐ」という言葉は土地所有に関する堅い言葉。(マタイ 5:5 参照) ・当時の成人男性は走らないから、よほどの緊急事態である。一定の資産家なのに同行者なしで、一人で来るということにも違和感がある。 →彼が所有していた土地(畑)に何かトラブルが起こり、土地を手放さなくてはいけない危機的状況が迫っていたと考えると説明できる。 ・約束の地を所有し守っていくことは、信仰的な重要性をもっており、神の国の到来に貢献することだと考えられた。 →この男性の求めは「御国の到来にどうしたら用いられるか」であり、目下抱えているピンチを乗り切る方法を求めてイエスのもとに来たのである。 2)耳を疑うイエス様のことば ・約束の地で「十のことば」を実行するなら、神の国は現実になると旧約聖書は語る。それゆえ男性の問いとイエスの答えは当たり前のやりとり。 ・「守ってきました」との自負が問題視されることもあるが、イエス様は彼を「いつくしんで(アガペー)」見ている。 ・彼が守ろうと必死になっているものを手放すようにイエス様は言われた。 ・「天に宝を持つ」とは「御国の到来に貢献できる」という意味。 →イエス様は「土地を守ることなしに、神の国に貢献することはできない」という信念を手放しても、御国に貢献できることを教えておられる。 ・土地を守ることで、貧しい人たちを長期的に養える。土地を売ったら短期的に養えても続かない。しかしもっと長期に考えれば神様は土地を返してくださるお方である。土地は神のものである。 ・「わたしについて来なさい」とは弟子としての正式な招き。手放した後の生活をイエス様が責任をもつと語っている。 3)神の国を受け継ぐ旅 ・17 節「道に出ていかれると」は「旅に出ようとされると」と訳せる。この動詞の主語はイエス様だけ。十字架において、すべてを父の手に委ねて、いのちを投げ出し、神の国を受け継ぐ旅へとイエス様は踏み出す。そこにこの男性も招かれた。必要なのは「良い神」への信頼のみ。 結)「こうでなければ」を手放せば ・信仰人生は「旅」である。危機をチャンスに、大胆に、柔軟に従おう。

    46분
  4. 9월 14일

    頑なさを諭されて(マルコの福音書10章1節~16節)

    序)10 章までのマルコの福音書の流れ ・8 章 31 節から「受難予告」が始まり 10 章 45 節で結ばれるサンドイッチ構造であり、中心主題は「すべてを立て直す」ことで、そのために逆三角形の世界を目指すことが教えられ、受難が必須だと語られている。 1)出来事の背景にあること~「試そうとして」の意味~ ・「ユダヤ地方とヨルダンの川向こう」とは、バプテスマのヨハネの活動場所で、ヘロデ・アンティパスが治めている領域。このヘロデは妻へロディアを離婚させて結婚していた。この経緯(6 章 17 節参照)が背景。 ・この場所でパリサイ人たちが「離婚」の是非をめぐって論戦を仕掛ける。どちらを選んでも追い詰められるがイエスは知恵深く対応する。この物語の結論は 12 節ではなく 16 節(9 章のパターンと同じ)であることに注意。 2)イエスの教えの主題 ・この箇所は「離婚について」ではなく「姦淫について」のイエスの教えである。パリサイ人たちの口車でミスリードされないように! ・9 節「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」は離婚の禁止ではなく、婚姻関係に第三者が入り込むことの禁止。「引き離す」は包括的な禁止命令ではなく、今すぐ中断せよという文法。 ・議論の争点になる申命記 24 章は離婚を前提にしている。離婚は悲しいことであり、避ける努力をすべきだが起こり得ることである。 ・「あなたがたの心が頑な」とは離婚当事者よりもパリサイ人たちを責めている。彼らの思考法が「頑なさ」の現れである。 ・イエス様の御言葉引用は、創世記 1:27 と 2:24 だが大事な部分を敢えて引用していない。「男と女は神のかたち(=神の国のしるし)」であり、結婚・家庭生活において御国は特に現わされるもの。それゆえ姦淫は罪。 3)頑なさを諭されて ・この議論の中に、子どもたちが連れて来られるが、弟子たちによって排除される。知識を増し加えた大人が、知識の乏しい子どもをイエス様から遠ざけ、△を志向する世界にイエス様は怒りを発する。 ・学びによって身に着ける力は「身勝手な都合」を実現する手段ではなく、次世代を祝福する御国のために用いるよう主イエスは教えられる。 ・「子どものように」とは頑なな大人との相対的対比で語られている。 結)家族関係が△か▽か ・すべての家族に傷がある。互いの尊厳を守りながら、傷を分かち合い、祈り合い、癒されていくことが子どもたち(未来)のために必要である。 ・主イエスが引用した創世記 2:24 はエペソ 5:31~32 でキリストと教会に適用される。ここに希望がある。子どものように主イエスに近づこう。

    45분
  5. 9월 7일

    たんぽぽの樹を育もう(ヨハネの黙示録22章1節~5節)

    序)ヨハネの黙示録にある「28」 ・イエス様を象徴する「子羊」が 28 回使われる。 ・28=4(世界)×7(完全)で全世界を満たすという象徴数。 1)22 章の美しい光景の意味 ・「まもなく彼方の流れの傍で」(教会福音讃美歌 336「川辺を歩めば」)で歌われるが、天国(あの世)の描写ではない。 ・「もはや、のろわれるものが何もない」とは、以前には「のろわれるものがあった」ことを示唆する。この光景は地上の贖われた姿である。 ・「いのちの水の川」は「神と子羊の御座(単数)」から出るゆえに聖霊の象徴である。一つの御座は神の国の中心を象徴し、ここに神、子羊、いのちの水(聖霊)という三者が関与する、三位一体が表現されている。 2)いのちの水で生かされる礼拝 ・黙示録は、礼拝の濁り(偶像礼拝、教えの混乱)を問題にしている。いのちを奪う礼拝ではなく、いのちを与える礼拝に回復することが、世界の回復につながる。謙虚に礼拝の回復を続けていくことが重要。 ・現代の教会に入り込んでいるのは「天国止まりの福音」。これが先鋭化するとグノーシス主義の現代版になる。これは異教との混交やカルトの温床になるし、教会の存在意義も曖昧になり、聖書理解を歪める。 ・いのちの水は「都の大通り」を流れるとは、聖霊の恵みが公に開かれたものであることを示す。神との交わりをすべての人に開く努力が必要。 3)いのちの水からいのちの樹へ ・「いのちの樹」は聖霊によって生かされる人間の象徴である。詩篇 92:12 ・神様から離れた人間は「草」に象徴される(イザヤ 40:6-8)。聖霊によって生かされるなら他者に永遠のいのちを与える(創世記 3:22)ことができるようになる。葉による癒しは、正気に戻すことである。 ・黙示録の主題は教会共同体(22:16)であり、聖書は人間を個人と同時に共同体として「ひとり」と数えるゆえに、この樹は教会の象徴。 ・この幻の下敷きはエゼキエル 47:12 で果樹は多様であることがわかる。 結)たんぽぽの樹を育もう ・3 節後半から動詞は未来形になり、神の国の完成の約束が描かれる。逆に言うと 1 節~3 節は現在形であり、私たちが関われる部分である。

    37분
  6. 8월 24일

    歌って嘆いて近づこう(詩篇40篇1節~17節)

    序)健全な人生には個人と共同体のバランスが必要 ・お金を媒介にせずとも助け合える共同体が子どもたちの育ちには必要 ・野球というスポーツには、個人と共同体の両面が表され、私たちの人生の比喩となる真実が含まれている。 1)教会の礼拝は個人と共同体が共存する ・「私」という一人称で歌い、祈ることが周りに生きる「多くの者」へと影響を与える。 ・礼拝は講演会ではない。賛美や祈り、信仰告白のパートにおいては、礼拝者が舞台の上にいて、神様が観客席にいる。 ・「新しい歌」とは、歌う側の信仰が刷新され、同じ賛美をより深いレベルで歌うことができるようになることを指す。自分の人生を背負って歌う賛美の中に神は力強い臨在を現される。 2)詩人の証しから問いかけられること ・詩篇 40 篇 1 節の「切に主を待ち望んだ」が全体に響き渡る主題。 ・私は今、ここまでの切実な求めをもって神様に向き合っているか。 ・「待ち望む」とはただの受動的な態度ではなく、助けを求めて叫ぶことを含む。必ず助けが来ることを信じて、上を見上げて叫ぶ。 ・私は今、どこにいるのか。滅びの穴、泥沼か。それとも巌の上か。 ・足元に揺らぎがないと感じる時は、切実な思いをもって感謝と賛美をささげていく。それが次の危機への備えになる。 3)感謝と嘆きが繰り返される世界で ・人生において、危機と平安、感謝(歌)と嘆きが交互に訪れる。 ・順調な時に、賛美と感謝をもって、歌いながら主の恵みとまことを心と共同体に刻んでいくことが、次のピンチを乗り切る力になる。 ・危機に陥ると視野が狭くなるので、神様の数えきれないみわざを見失い、自分の罪の多さに目を奪われて絶望しそうになる。だからこそ平安の時に歌う歌が重要になる。感謝と賛美に支えられるからこそ、希望をもって嘆くことが可能になる。 結)歌って嘆いて近づこう ・私たちは歌と嘆きを繰り返す中で、主に近づいていく恵みをいただく。 ・神に近づくなら、神に期待して大いなる挑戦ができるようになる。

    38분
  7. 8월 17일

    将来への希望(エレミヤ書29章11節)

    序)「氷点」が示す「なくてはならぬもの」④ 「おれにとって、なくてはならぬものとはなんだろう」(「氷点」階段)三浦綾子著「氷点」の第四の自殺者が示す「なくてはならぬもの」→将来への希望「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ 29:11) 1)人生の希望 「もし…療養している最中に、誰かが私に次のように預言したとしたらどうであったろう。「あなたの病気は治ります。そして、三十歳を過ぎてから、一人の男性が現れます。…五年目には、あなたはその人と結婚することでしょう。…それから五年後、一千枚の長編小説を書き、その作品が入選して、一千万円の懸賞金をもらうことでしょう。そして少なくとも七十歳までは生き、七十冊近い本を出すことになるでしょう」と。私はこれを聞いて腹を抱えて笑うか、くだらぬ冗談として聞き流したことであろう。 」(「明日のあなたへ」神の領分) 「神の書かれるシナリオと、あなたの書かれるシナリオとは異なるのです。」(同) 「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」(エペソ 3:20,21) 2)死後の希望 「母を失った信夫はどんな生涯を送ることだろう。…でも、いよいよとなれば、信夫のことは神さまにおまかせするより仕方がないかもしれない。…今は辛くても、きっとこのことも、結果としてはよいことであったという日が来る。神が生きておられる以上、信夫のことも、神が守って下さるにちがいない」(「塩狩峠」母) 「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ記 2:20) 「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(Ⅱサムエル 7:12) 3)永遠の希望 「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがれる みはやすけし…わだしが死んで、一人とぼとぼ歩いていくんだども、なんも淋しくないのね。イエスさまの手さつかまって、イエスさまと一緒に、天の国さ行くからね。」(「母」山路越えて) 「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ 4:16,17) 「うれしかったなあ。多喜二に会える、多喜二に会える。うれしかったなあ。」(「母」山路越えて) 結)私達の確信と祈り 「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」(詩篇 138:8)

    48분
  8. 8월 10일

    自分の正義を手放せますか(ヨナ書2章1節~10節)

    序) ・ヨナ書は短い物語ですが、予想外の展開と人間らしい主人公ヨナの姿が心を惹きつけます。嵐の海、暗く冷たい魚の腹の中――そんな極限の中で、ヨナは何を思ったのでしょうか。 1) ・神様の命令を聞いたヨナは、正反対の方向に逃げてしまいました。大嵐に巻き込まれ、海へ投げ込まれ、ついには大きな魚に飲み込まれる――そこからが神様との対話の始まりでした。 2) ・ヨナは放蕩息子の兄と似ています。『自分は正しい』という思いに縛られ、赦しや喜びよりも、自分の正義を守ろうとしました。その固い心は、やがて彼を孤独へと向かわせます。 ・私たちも、自分の正義を強く握りしめる時があります。その結果、神様の導きに耳を閉ざし、周りとの関係を失い、気づけば暗く冷たい“魚の腹”のような孤独に沈んでしまうこともあるのです。 3) ・ヨナのような最善ではない祈りが、私たちの普段の祈りかもしれません。でもたとえそうであったとしても、神は傍に立って聞いてくださいます。 ・それは、イエス様はヨナの話を引用され、この時のヨナの姿をご自分の十字架の死と重ね合わされたからです。イエス様は私たちの孤独や言い訳をすべて背負い、十字架の死と“よみ”にまで降られたからです。 結) ・放蕩息子の兄は、父に宥められた後で祝宴に参加したでしょうか?ヨナは、ヨナ書で書かれている話の後、どうしたと想像しますか? ・教会は、赦しと喜びのパーティーが広がる場所です。今は納得できなくても、この交わりの中で私たちの祈りは少しずつ変えられていきます。

    47분

소개

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

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