流れのほとりに

身軽に旅する難しさ(マルコの福音書10章23節~31節)

序)「旅」の比喩のポイント

・私たちの人生は「旅」であり私たちは「旅人・寄留者」であるが、それは「天国への旅」ではない。

・アブラハムは相続地を「所有者」としてではなく「旅人」として生きた。「はるか遠く(へブル 11:13)」は場所ではなく時間的な距離である。

・「天の〇〇」という表現は「人の手では届かない高み」を意味する。

1)旅を忘れやすい私たち

・「神の国はこの地上に実現する」ことだけが主張され「旅」が欠落すると、自分たちが「神の国を建てる」ことができるという錯覚に陥る。

・金持ちの青年は、土地をもち、そこで律法を行うことを「握りしめた」結果、旅を見失った信仰に陥っていた。

2)「神の国に入る」とはどういう意味か

・「神の国」=「天国」なら「入る」の意味はわかりやすいが、そうではない。「神の国に入る」とは「神の御心を実現していく状態に入る」こと。

・「針の穴」という名前の門がエルサレムにあったという解釈は事実無根。

・「神の国に入る」とは「神の国状態に至る」と言い換えることができる。

・「神の国を相続する(受け継ぐ)」というのは、神の国状態からもはや外れることがない状態になること(=永遠のいのち)である。

3)「神の国状態に至る」難しさ

・「富(財産とは違う言葉が使われている)」をもつと、富を守ることに心が向きやすく、神に信頼し、御心を受け止めることが妨げられやすい。

・「神の国が回復され、そこに入る人が正しい状態(義)に戻される」ことを弟子たちは「救い」と考えた。だから金持ちはその筆頭と見なされていた。しかしイエス様は弟子たち(当時の一般的期待)をひっくり返す。

・難しいが不可能ではないことに注意。イエス様のポイントは「神によって」可能になるということにある。

・ペテロが弟子の代表として自分たちが「手放してきたもの」を並べて「前のめり」に喜びを表現するが、イエス様の応答は謎めいている。

・「捨てる」と訳された言葉は「手放す(握りしめない)」の意味。積極的な遺棄ではない。これは旅人の姿勢。

・「手放した」弟子たちに百倍(誇張表現)が約束される。しかし「迫害とともに」である。そして「受けたもの」を再び「握る」可能性はある。エルサレム教会は A.D.70 年のエルサレム陥落ですべてを失う。

結)「究極の一歩手前の真剣さ」で生きる訓練への招き

・神に従い、その祝福を味わいながら、なお身軽な旅人であること!