オーディオドラマ「五の線3」

207.1 第196話「還るもの」【前編】


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水位が足首を超えた。
金沢駅東口へと続く歩道は、すでに道路の面影をなくしていた。
下水は逆流し、泥と瓦礫が浮遊し、ゴミ袋と共に正体不明の有機物がぷかぷかと水面を漂っていた。
普段なら観光客や通勤客でごった返していた広場は、まるで水底に沈んだ空虚な箱庭のようだった。

片倉京子は、足を止めた。
深く、ひと呼吸。
ザバ……と脛が水面を割る。振り返る者など誰もいない。
あたり一帯は緊急安全確保措置で封鎖され、人影はない。
いるのは彼女一人と、遠くでサーチライトを照らすUH-60の機影、そして、近づくサイレンの音のみ。

と――

「……パン……!」

乾いた破裂音が、遠くから微かに届いた。
銃声。
訓練ではない。これは実戦の音だ。
その後、間を置かず別方向から複数の破裂音。
やがて何かが爆ぜるような轟音が遅れて腹に響いた。

京子は、目を細めた。
もはやこの一帯は「災害現場」ではない。
災害と戦闘とが同時進行する、“二重の危機地域”だった。

(……いったい、何が起きてるの……)

それは恐怖だった。
だが、それだけではなかった。
喉の奥にこびりつくような違和感。
頭のどこかで、別の何かがゆっくりと顔をもたげる。

記者としての勘だった。
足がすくんでもおかしくない。
だが、京子は前に出た。
水浸しの金沢駅へと続く道路。その先に、かつて彼女が何度も歩いた“あの金沢駅”は、もうなかった。

──こんなにも、変わってしまった……。

その瞬間、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。
画面を見た。
胸ポケットからスマートフォンを取り出す。電波は弱く、画面は濡れた指で曇っていたが、それでも確認できた。

──GPS確定。

画面には、たった一つの点が点滅している。
それは、相馬周の携帯が最後に位置情報を発信したと思われる地点。

《金沢駅東口・旧商業ビル区画》

指先が、自然とその画面に触れていた。
雨の音に紛れて、京子は小さく呟く。

「……ここに、いるんだね。周……。」

《周が死んだ……もう、分かってる。だけど、あの人が命を懸けていた意味を、無駄にしたくない。父さん、あなたが何を知ってるかは聞かない。でも、逃げないで。私も逃げない。だから、今度は一緒に立ってほしい。》192

目を閉じ、雨音の中に何かを探すように顔を上げた。
風が強まる。髪が乱れる。だが、彼女の目はもう迷っていなかった。

遠く、瓦礫の向こうに自衛隊の影が見える。警察の背中もある。
照明に照らされて動くその姿の中に、きっと父の姿がある。そう勝手に確信していた。

(伝えなきゃ。残さなきゃ。見なきゃ――)

彼女は再び歩き出した。沈みかけた歩道を、ひとり。
雨が、なおも打ちつける。標識も、歩道も、コンビニの看板も――あらゆるものが濁流に飲み込まれようとしていた。だが、その中で彼女の足取りだけは、まっすぐだった。

そのときだった。

ビル街の奥。濁流が街路を飲み込む音の向こうに、三つの影が揺れていた。泥に濡れた迷彩服、損壊したビルを背に、ゆっくりとした足取りで歩を進めてくる。
京子は一歩、水面を踏みしめる。

(……デスク……?)

確信だった。遠目でも分かる。あの歩き方、体の傾き、肩の高さ――
たとえ想像もつかない装いをしていても、染みついた“像”は揺らがなかった。

「デスク!」

声が、雨音に削られながら広がる。黒田はぴたりと動きを止めた。顔を上げ、目を細める。

「……京子……?」

その声に、吉川が一瞬身構え、椎名の肩にかけていた腕を微かに引き寄せた。
黒田が京子に駆け寄ろうと一歩出たところで、彼女の視線は――黒田の隣にいた、もうひとりの男に吸い寄せられた。
髪は濡れて顔に張りつき、泥にまみれた迷彩服。だがその目は――鋭く、深く、どこか焦点がずれている。

(この顔……どこかで……いや、まさか……)

思い出すよりも早く、記憶の断片が現れた。

「こいつは仁川征爾。椎名賢明なんかじゃない。」189

脳裏をよぎる、相馬の最後の言葉。

(この人が……仁川……?)

息を呑んだ。写真の中でSATの戦闘服を着ていた男とは姿こそ違うが、顔だけは確かに一致していた。だがその男は――黒田と並んでいた。守られるように、寄り添うように。

(デスクが……仁川と……?)

思考が追いつかない。足が震えるわけではないが、心が揺れた。
一方、黒田も同じように驚いていた。

(京子が……なんで、ここに……)

そして気づく。京子の目が、椎名を見ていることに。
そのとき。
椎名――いや、仁川征爾が、ぬかるんだ地面に膝をついたまま、京子の顔を見ていた。
じっと、無言で。
まるで、彼女の存在だけを見つめるために、ここまで辿り着いたかのように。
その視線は、冷酷でも、計算でもなかった。