オーディオドラマ「五の線3」

207.2 第196話「還るもの」【後編】


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(……来たのか)

椎名の胸の奥で、何かが軋むように揺れた。

(……来るべきじゃなかった。)

ボストークで、ちゃんフリで、軽く冗談を挟みながら、過剰な距離も取らずに接してきた彼女。
女でもなく、敵でもなく、“ただの相棒”として、淡々と接してくれた存在。

(……お前は俺を“人間”として扱ってくれたっけ…)

濁った水音の中で、椎名の視線が、京子から離れなかった。
一歩前に踏み出した彼女の姿が、波紋を生んだ泥濘に揺れる。
その目は焦点が合っていない。だが、明らかに京子を“視て”いた。
――その瞬間、椎名の内側で、ある“異変”が起きていた。

(……お前の恋人を、俺は……)

そう思った瞬間、自身の胸の奥で、何かが軋んだ。

(……俺は“なぜ”この女の目に、“喪失”を見た? なぜそれが、相馬という名前に結びつく?)

脳が追いつかないまま、言葉だけが先行していた。
ただの“記憶”ではない。思い出せるはずのない情報が、まるでどこかから滑り込んでくる。

目の前の女性――片倉京子。
その表情、その立ち方、その瞳に浮かぶもの。
それが“誰を失った女の瞳か”など、知るはずもない。
だが確かに、椎名の内部で何かが繋がった。

(……まただ……この感じ……)

無意識のうちに、椎名の右手が自分のこめかみに触れていた。そこには、かつて受けた“ある処置”の痕がある。
金属片のような感覚。眠れぬ夜の圧迫感。
情報ではなく、“感覚”が流れ込んでくるような、奇妙な現象。

(……記憶じゃない。……)

仁川征爾としての過去。ツヴァイスタンでのあの研究棟。
鍋島能力。視線による一瞬のトリガー。対象の内部情報の“断片”が、こちら側に滑り込んでくる。

それは能力ではなかった。
むしろ、制御不能な呪いのような“代償”だった。

(……そうか。俺は“見てしまっていた”のか……)

京子の視線を受けたことで、彼女の内部に眠る記憶――相馬周との関係、その喪失、そしてまだ言葉にされていない痛み――が、椎名の中に、わずかに浸透していた。

その思考の最中――

黒田が小さく声を漏らす。

「……仁川、お前……」

だが、その続きを言うことはなかった。
椎名の目に、京子が真っすぐこちらを見つめる姿が映る。
彼女の目の奥に宿るのは怒りか、困惑か、あるいは――
哀しみか。

(俺は、いつのまにか“視られていた”のかもしれん……)

彼女の瞳に宿る静かなもの。それは、憎しみでも怒りでもなく――問いだった。
何のためにここに立ち、誰を見つめ、何を知ろうとしているのか。
その“問い”の正体が、椎名の中にわずかに侵食してくる。

その瞬間、ふと――

(……相馬……)

名前が、頭の奥でこだました。思わず眉が動く。

(……なぜだ……?なぜ、この名前が……)

声に出してはいない。だが、確かに思考の中に“それ”があった。
さっきから、どこかで耳にしたような響き――だがそれは“記憶”ではない。
明確に聞いたことはないはずなのに、まるで染みついているかのように、自然とそこに浮かんできた。

(……京子と共にいた男。……彼女の目の奥に、残っている男の影……それが、“相馬”……)

彼は考える。

(これは……俺の記憶じゃない。……感情の残渣――)

そうとしか、説明がつかなかった。

(俺は誰かの記憶を“引いた”のか……)

椎名は唾を飲み込んだ。
かすかな眩暈とともに、冷たい汗が椎名の背を伝う。

(……お前の恋人を、俺は……)

彼の視線が揺れる。
続けて椎名はぽつりと呟いた。

「……相馬……」

――京子の心臓が止まるかと思った。
一歩、二歩、にじり寄るように進む。
聞き間違いかと思った。だが、確かに彼の唇が相馬の名を形作った。

「今……なんて言った……?」

京子の声が震えた。黒田が息を呑む。

(どうして……? 周の名前をこの人が……?)

混乱と恐怖の中に、この場にいる者の皆が言い知れぬ違和感を覚えた。
黒田がようやく言葉を絞り出した。

「京子……こいつは……」

言い切れなかった。言えるはずがなかった。
京子の目に、黒田の沈黙が映った。
そして、再び椎名の視線が京子に向けられる。
罪悪感でも、懺悔でもない。ただ、“何か”を確かめるような目。

「あなたは……誰?……なの……」

京子の問いは、鋭くもなく、責めるようでもなかった。ただ、“答えを求める声”だった。
――それが、何よりも残酷だった。

(俺は、誰だ……?)

椎名の内側で、記憶と認識がせめぎ合っていた。
自分は仁川征爾。だが同時に“椎名”でもあった。
記憶の底に、もう一人の自分がいる。その声が、目が、手が、次第に干渉してくる。

椎名は黒田へと目を移す。
黒田は、椎名を怪訝な顔つきで見つめていた。口を開くこともなく、まるで何かを計るように、その視線はじっと動かなかった。

次に、吉川。
こちらも無言のまま、椎名と京子の間に漂う張り詰めた空気を感じ取っていた。
眉間に微かなしわ。射撃の緊張ではない、人間関係への警戒。
拳銃に手をかけることもせず、だがいつでも動ける姿勢で、距離を保っていた。

そして――京子。
雨に濡れた髪。泥が染みこんだアウター。
それでもその瞳だけは、真っ直ぐ椎名を見据えていた。
恐れではない。怒りでもない。
そこにあったのは、理解の及ばぬものに対する「覚悟」のような、静かな光だった。
椎名の視線が、ゆっくりと周囲に転じていく。

舗道の境界は既に消え、水は膝近くまで達しつつある。
逆流する水音がビルの隙間で反響し、崩れかけた壁の向こうでは重い物が流されていく音が絶え間なく続いていた。

(……長くはもたんか……)

雨は激しさを増している。
付近の建物ごと押し流されるのも、時間の問題だった。
この状況で誰が味方か。誰が敵か。
何を捨て、何を拾うか。
椎名の身体が、わずかに傾ぐ。
水の重さか、罪の重さか。

(……終わらせるか……)

銃声が響いた。
それは、明確な意志を帯びていた。

「バンッ!パンッ!」

突然の破裂音に、京子は思わず身をすくめた。
直後、黒田の右脚に激痛が走り、吉川の脇腹にも熱を感じる。

「ぐっ……!」
「くそっ……!」

二人の体が一瞬沈み、泥の川に膝をついた。
撃ったのは仁川征爾だった。
表情は冷たく、目だけがどこか、すでに遠い場所を見ていた。

「仁川……!何を……!」

黒田が叫ぶより早く、椎名は最後の一発を――京子の足元に撃ち込んだ。
銃声のあと、泥水が跳ねる。
京子は声も出せず、わずかに後退りしながら、ただ椎名の顔を見つめた。

「……行け」

椎名の声は静かだった。あまりに静かで、雨音よりも遠くに聞こえた。

「……邪魔すんな。」

黒田は肩を押さえながら睨みつけた。

「お前、何をしようとしてる……!」

椎名は答えなかった。ただ、空を見上げる。
銃を下ろし、濡れた髪を払い、そして言った。

「……俺が始めたことだ。終わりくらい、俺の手でやる」

その一言に、黒田は言葉を失う。
吉川も、拳銃に手をかけることなく、その目だけで椎名を追った。
京子だけが、なお問いかけていた。

「……あなたは……」

椎名は振り返らない。
濁流は確実に迫っていた。舗道の境界は消え、泥水は膝を超えようとしていた。
崩れかけた壁の向