オーディオドラマ「五の線3」

208.1 第197話「濡れた獣」【前編】


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一発の狙撃が、戦場の均衡を崩した。
プリマコフ中佐の体が膝をつき、泥濘に崩れ落ちたその瞬間、まるで濁った水の上に立つ紙の塔のように、人民軍部隊の指揮系統は一気に瓦解した。
ドームの骨格だった鉄骨の影から、散開していたツヴァイスタン兵たちが一斉に動きを止めた。彼らが見ていたのは、倒れた男の背ではない。崩れた「秩序」そのものだった。
一人、また一人と銃を捨てる音が聞こえる。命令は来ない。誰が敵で、誰が味方かも、もうわからない。
間を置かず、アルミヤプラボスディアの残存隊も身動きを止めた。
トゥマン部隊の小隊長ベネシュは、後退の指示を出す前に、沈みゆく広場を見渡して唇を噛んだ。
眼前に展開するのは、機械のように連携する自衛隊第14普通科連隊と、影のように移動し、敵の背後を突く特殊作戦群の隊員たち。その“練度”は、もはや戦争の経験差では埋まらない領域だった。
降伏――
それは戦士にとって屈辱だ。だが、あの雷鳴のような銃声が響いた瞬間から、彼は理解していた。
「これは、“格”が違う」と。
ベネシュは静かに頭からヘルメットを外し、銃を掲げ、瓦礫の上に立った。

戦闘は、終わった。
否、正確には、“終わらされた”。

上空から続く豪雨が、すべてを洗い流し始めていた。
浅野川の氾濫によって、駅前の広場はすでに腰まで水が迫る泥の沼と化していた。倒れた装甲車は波間に沈み、標識は折れ、砂利混じりの水がかつての舗道を侵食していく。

雷鳴の代わりに鳴るのは、濁流が街路に押し寄せる低い地鳴りのような音。

──人の力では、もはや止められない。

兵も、戦術も、理念も、この自然の前ではあまりに脆い。
特殊作戦群・群長黒木為朝は、双眼鏡を下ろし、濡れた面前のマップに指を置いた。

「ここまでだ」

その呟きが、戦場に残ったすべての“戦士”に届いたかのように、銃声は以後一度も鳴らなかった。

ーーーー
泥濘と化した広場には、膝下まで水が溜まり、歩くたびに「ざばっ」「ぐしゃ」と濁った音が周囲に響いていた。雨は依然として叩きつけ、重たい水の膜が視界を滲ませる。
建物基礎の段差を越えて、泥水がじわじわと館内に浸入しはじめていた。
現場には警察、消防、自衛隊が入り乱れ、担架とストレッチャー、ロープと声が交錯していたが、誰の指揮下で動いているのかが曖昧になりつつあった。

「消防が中から搬出中!警察とバッティングしてる!」
「そっちはダメだ、地下から水が――!」

雨音、濁流音、怒声。何が誰の声か、すぐにわからなくなる。

そんな中――ざばっ、ざばっ、と水を踏み分けながら、一人の男がゆっくりと現れた。公安特課・片倉だった。
背に泥を弾いた防水ケープ、顔は仏頂面。だが、視線は鋭く、周囲の全景を一瞥しただけで把握した。
泥水に脚を取られながらも、彼の動きには微塵も迷いがなかった。
後ろから追ってくるのは岡田。若いが、すでに何度も修羅場を共にしてきた。

「現場、混乱状態です。」

岡田の報告に片倉は頷き、ざばりと一歩踏み出す。その長靴の周囲で水が円を描いて飛び散った。

「岡田、後方のルートを消防と調整しろ。隊列を分ける」

片倉は無線を取り出し、短く言葉を飛ばす。

「こちら片倉。機動隊第三小隊、ロープ通路を北口へ。担架は南側車寄せに転回。自衛隊はゴムボートを東端へ。消防は西壁側で負傷者搬出支援に集中。混成指揮系統は、今からこっちで取る。」

一瞬の沈黙。

「……消防了解!指示に従います!」
「自衛隊、了解。」

即座に現場が動いた。さっきまで互いの動きを邪魔していた部隊が、まるで図面の上の兵棋のように機能し始めた。
岡田が隣で呟いた。

「すごい……。」

その言葉に返事をせず、片倉は視線を上げる。ふと、階段上から人を支えて上がってくる女性の姿が目に止まった。
泥にまみれたカーディガン、濡れた髪、しかしその瞳は一点を見つめてぶれなかった――
山県久美子。

彼女の姿に、片倉の記憶がざわついた。

(……なんで……また…ここで……。)

熨子山事件、鍋島事件につづいて今また、ここに彼女はいた。
岡田も気づいたようだった。

「……なんで……山県久美子?」

しかし彼女は彼らの視線に気づかない。階段を上がった先で、子どもを担いだ母親に毛布をかけていた。
彼女にとっては、ここは単なる災害現場。誰の目を気にすることもなく、人を助ける現場。それだけだった。
片倉は無言で目を伏せた。

(……偶然か? いや――)

足元で水がざぶりと揺れた。何かが深層でつながっているような感覚があった。
だが、今はそれを深く追う時ではない。
片倉は再び無線を取り、冷静に現場へと声を投じた。

「搬送完了数、報告しろ。ローテーション中の隊員は交代。地下階段の水位、あと15分で限界だ。急げ」

彼の言葉が、混濁の場に再び秩序をもたらしていく。
雨はまだ降り止まない。

ーー