オーディオドラマ「五の線3」

208.2 第197話「濡れた獣」【後編】


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濁流が足首から脛へと水位を上げる中、音楽堂の前では自衛隊と消防、警察機動隊による救助活動が次の段階へと入ろうとしていた。避難者の大半は地上へと搬出されつつあり、ゴムボートは最後の巡回に入り、担架も尽きかけていた。
誰も気づかない、雨の帳の奥――
濡れた舗道の向こうから、一つの影が水を踏んで歩いてきていた。

ざぶ……ざぶ……

それは“ゆっくり”だった。
焦る様子はない。疲労の色も、躊躇もない。
ただ、決定された一歩を順番通りに進めるかのような律動。
軍靴。迷彩服。
右手には拳銃。左手は垂れ下がり、指先から血が滴っていた。
目は何かを見ているようで、何も見ていなかった。

仁川征爾――椎名賢明。

「……!」

片倉が、救護区画の指揮卓越しにその姿を見つけたのは、偶然ではなかった。
あまりに自然に、その男は戦後の静寂の中へ入ってきた。
あまりに静かに、“何かを終わらせに来た者”として。
次の瞬間、片倉の背に氷のような感覚が走る。

(……殺気じゃない。違う。……死)

あの男は、もう人間の顔をしていなかった。

「……岡田、視線を逸らすな。あそこだ。……来てるぞ」

岡田もすぐに目で追った。その男が誰かを認識するのに、一秒もかからなかった。

「……椎名………!」

片倉は無言でイヤホンマイクに触れた。声は低く、だが震えてはいなかった。

「神谷、聞こえるか。片倉だ」

片倉のイヤホンに、混線気味の通信が入る。

《……こちら神谷。広場南端より音楽堂前を視認中。……目標、確認できた》

片倉はぬかるんだ地面に視線を落としたまま、静かに答える。

「狙撃体勢に入れ。ターゲットは仁川征爾――SATコード“椎名賢明”だ」

一拍置いて、神谷が重く言う。

《……射線は取れます。距離およそ300。遮蔽物なし。指示を》

片倉の瞳がわずかに細まる。
目線の先、濁流と泥に塗れた音楽堂の搬送ライン、その先。
水を蹴り、ゆっくりと歩いてくる――その姿。
あれは、もはやただの一兵士でも、ただの亡霊でもない。
仁川征爾。
椎名賢明。
いずれの名を呼ぶにせよ、これは“向き合わねばならぬ存在”だった。

片倉は口元を引き締め、無線に言った。

「……撃つな。まだだ」

《了解。射線保持。引き金は片倉さんの合図で》

片倉は応えなかった。ただ、泥水を踏みしめ、ゆっくりと前へ歩き出す。
顔を上げ、真正面から仁川を――一度は公安に名を連ねた者を――迎え撃つために。

雨は弱まる気配を見せない。
だが、音楽堂前に立つ二人の男の間だけは、まるで時間が止まったかのようだった。

濁流を踏み分け、泥にまみれながら――仁川征爾はまっすぐ歩いてきた。
その足取りに迷いはない。
消防も警察も、自衛隊も、誰もが道を譲った。誰もが、彼が「ただ事ではない存在」だと直感していた。

片倉は、真正面から彼を見据えていた。
腰には拳銃。だがまだ抜かない。
その手が震えていたのは、寒さのせいではなかった。

(……相馬……)

名前を思い浮かべるだけで、喉が焼けるようだった。
あの男は、相馬を殺した。
きっと、古田も、富樫も、奴の計画に巻き込まれて死んだろう。
あの目が、あの“冷たい歩き方”が――自分はどうにも許せない。
片倉の胸が、怒りと悔しさで破裂しそうだった。

(……なんて人間や……)

人を喰い物にし、国家を揺るがせ、そして今、何事もなかったかのようにこの場に現れる。
ただの犯罪者ではない。これは――絶対悪だ。
国家の法と秩序に、最後まで喰らいついたまま沈んでいく獣。
目の前にいる、それはもう“誰か”ではなく、片倉にとっての「存在してはならないモノ」だった。

仁川も、片倉を見ていた。
その瞳は、憎しみとも怒りとも違う。
ただ、焼けた鉄のような激情がそこに沈んでいた。

(……そうか。あんたか。あんたがここで出てくるか。)

「なにかきっかけでもあったんですか?片倉さんが覚醒する。」
「ありました。」
「それは。」
「ひとりの警察官の死です。」
「警察官の死?」
「はい。当時、片倉班長は捜一の課長でしてね。その直属の上司である刑事部長が亡くなったんです。」
「刑事部長って結構上の役職なんじゃないですか。」
「はい。そのお方は警察幹部でありながら、自ら現場に乗り込んで指揮を執る極めて希な存在のキャリアだったんです。それが結果的に事件に巻き込まれて…。」
「それは…。」
「その事件も、6年前の朝倉鍋島事件も結局のところツヴァイスタン由来です。そこに今回のテロ予告。ツヴァイスタンは我々にとっても決して組みがたい存在です。」157

片倉の顔を、仁川は見据えた。

(……俺は、お前らに――政府に、見放された)

誰も助けなかった。誰も呼びかけなかった。
指示も命令もない。干渉もない。
ただ、何も関わらず、黙って“放置”されてきた。

(指図されるほうがまだマシだった。せめて何かしろと命じられれば、まだ道があった)

けれど、国家は沈黙を選んだ。
見殺しにし、都合が悪ければ目を逸らし、還ってきても“いなかったこと”にされた。

(だから俺は、すべてを自分の力でやってきた。やらざるを得なかった。)

日本の裏にある、見えない世界。
そこで生き残るために、裏切り、殺し、欺いてきた。
それが今――

(お前みたいな存在が……仲間が数名、数十名死んだくらいで、顔を歪めて見せるのか)

怒り?悲しみ?
それがどうした。
何の覚悟もない者たちが、国家を語り、正義を語る。
仁川の目が、わずかに細められる。

(くだらん……)

心の底から、そう呟いた。
それだけで十分だった。
その言葉を、片倉ははっきりと聞いたわけではなかった。
だが、その目――仁川の目がすべてを語っていた。

片倉(くだらん、か……)

鼓膜の奥に残るような響きが、片倉の中の何かを引き裂いた。

片倉の眉間に深い皺が刻まれる。
こみ上げてきたのは、怒りだった。
個人的な感情ではない。だが、それは確かに「私情」だった。

片倉(俺も相馬も、トシさんも、マサさんも――全部、こいつの掌の上やった。俺らは踊らされて、ただ死者を積み上げた…)

正義を掲げるでもなく、革命を語るでもない。
ただ、自分が見捨てられたという理由で、何もかもを巻き込み、焼き払い、破壊していく男。
目の前の仁川征爾――椎名賢明。
その姿は、片倉にとって紛れもないこの国が育て、見捨てた呪いだった。

片倉は口を開かない。
罵倒も詰問も、ここでは意味をなさないことを理解していた。

片倉(問うだけ無駄か。こいつはもう、どこにも帰る場所なんてないんだ)

空気が重くなる。
雨の中に、互いの体温が沈んでいく。
仁川はわずかに顎を上げ、嘲笑のような目つきで片倉を見返した。
まるで、“それで終わりか”と言いたげに。

だが――片倉は、その目を逸らさなかった。
次の瞬間、無線から微かな声が流れた。

《……片倉さん、応答を。狙撃可能位置、確保済み》

それは神谷の声だった。
ただし、すぐに引き金を引けという圧はなかった。
片倉は静かにイヤホンに触れ、短く答えた。

「……待て。まだだ」

仁川の眉が、わずかに動いた。
それは警戒ではなかった。
どこか、驚きに似た微かな揺らぎ。

(撃たないのか?)

仁川の中に、初めてわずかな“誤算”が生まれていた。
片倉は歩み寄る。
泥に足を取られ