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古田が亡くなって、まもなくひと月が経とうとしていた。
午後の陽が差し込む駅近く。
木造二階建てのアパートの前に、森はひとり立っていた。
引き渡しは今日。
部屋の中に残っていた遺品は、すでに古田の娘がすべて引き取っていった。
小さな郵便受けの名札には、まだ「フルタ」の名前が貼られたままだった。
ドアの前で、森は立ち止まり、そっと呟いた。
「……トシさん」
その声は風にさらわれ、誰の耳にも届くことはなかった。
「……私、怖いわ……」
目を伏せ、森は続ける。
「あんなに濃くて、強くて……絶対に消えないって思ってた存在だったのに。今じゃ、朝の通勤途中にふと思い出すことも減ってきてる。」
自分の脳が、意図せず彼を遠ざけようとしているような気がしてならなかった。
「……思い出さなければ、まるで最初からいなかったみたいになる。人って、そんなふうに……できてるのかしら。」
彼が日常にいたはずの痕跡――玄関マット、洗濯物の匂い、部屋の明かり――
それらすべてが、あまりにも簡単に消えていった。
「……こんなにも、いい加減にできてるんだな。人間の記憶ってのはよ。」
ふと顔を上げると、空は、雲一つない青だった。
森は小さく息を吸い込んだ。
アパートの前でしばらく立ち尽くしていた森は、やがて振り返った。
ゆっくりと階段を降り、アパートを背に歩き出す。
道端に一台の車が停まっていた。しばらくして、その車のエンジンが静かにかかる。
助手席のドアを開けて乗り込むと、運転席には山県久美子がいた。
「……なにか、話しかけてたみたいでしたけど。」
ハンドルを握ったまま、久美子がちらりと横目で言った。
森は目を伏せたまま、小さく首を振る。
「……ううん、なんでもない。独り言よ」
少しだけ沈黙が流れた。
「……あんたは、いいの?」
そう問いかける森に、久美子は一度、顔を正面に向けたまま黙っていた。
そして、ほんのわずかに首を横に振る。
「……まだ、わかんない。たぶん……よくないと思う。でも……」
言葉を途中で切り、久美子はウィンカーを出した。
車はゆっくりと、街のほうへと走り出す。
「それでも、生きていかなきゃ……。」
久美子のその言葉に、森は何も返さなかった。
助手席の窓から流れる風景を見ながら、ただ黙って頷いた。
車内にはしばらく、アイドリングの音だけが流れていた。
久美子はためらうようにダッシュボードのスイッチをひとつ押す。
カチ、と軽い音を立てて、ラジオがつく。
少しこもった音質の中から、ニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。
「――ツヴァイスタン人民共和国に拉致されていた千名以上の被害者たち。その帰還事業が、本格化しています」
森はゆっくりと顔を上げ、助手席の窓の外を見つめたまま、耳だけを傾ける。
「連日、空港では出迎えに涙する家族の姿が見られ、再会を果たした被害者たちの表情がカメラに映し出されています」
久美子はハンドルに手を置いたまま、前を向いていた。
窓の外では、風に揺れる幟(のぼり)がぼんやりと揺れていた。
「帰国者の多くは、日本への帰国を望んでいる一方で、長年の異国での生活による心身の変調や、日本社会への再適応の困難といった問題も指摘されています。
それでも、世論はおおむね“帰還”を歓迎する姿勢を示しており――」
森は、胸の内で何かが押し寄せるのを感じた。
「――“やっと何かが終わった”“やっと何かが始まる”……。
そんな声が、いま日本各地で聞かれています」
ラジオを聞いていた男の前でコーヒーの湯気が揺れる。
テーブルを挟んで、朽木と向かい合って黒田が座っていた。
「……仁川征爾も、ツヴァイスタンに拉致されていたと判明しました。」
黒田は、朽木の問いを待たず、静かにそう言った。
「ほうか……ほんなら、征爾も戻ってくるんか?」
朽木の問いに、黒田は少しだけ間を置いた。
「……関係筋によると、仁川は向こうで“事故”に遭ったそうです。」
淡々とした口調だったが、その目には、わずかに迷いがあった。
「……遺体は、確認されていません。」
朽木が怪訝そうに目を細める。
黒田はコーヒーに視線を落とした。
「――じゃあ、あのニッカⅢは?」
朽木がぽつりと訊く。
黒田は、薄く笑った。
「まだ警察が預かってるそうです。なので俺が責任を持って……彼の“墓”に供えます。」
「墓言うて、あのツヴァイスタンに征爾の墓があるんか。」
「……ええ、まあ、“見つかる”かは分かりませんが。」
“見つかる”という言葉に、少しだけ力が込められた気がした。
ーーー
松永は黙って写真を裏返した。
そこには何の書き込みも、日付もなかった。
「……これが最後の“証拠”か。」
誰にともなく呟いたあと、松永は視線を持ち上げた。
「百目鬼、このフィルムの管理は?」
「こちらで保管。報告書には“個人遺留品”として記録します。」
「関。」
「……内調としても、ここは沈めるべきかと判断しています。」
松永は短く頷き、写真をもう一度手に取った。
「――しかし、奇妙だな。こんな顔、百目鬼、お前見たことあったか?」
それは、富樫の笑顔だった。
裏階段で、ピースをしながら、心から笑っている顔。
関も、百目鬼も黙っていた。
誰も、何も言わなかった。
「……椎名の遺体は、まだか?」
「はい。上がっていません。」
「そのことは――」
「もちろん、報告書からは削除済みです。彼の名前も、すでに……」
「忘れろ、か。」
松永は写真を机に戻した。
「だがこれは、どうするんですか。笑ってるんです。笑ってるんですよ、あの富樫が。」
わずかに感情が滲んだ百目鬼の声だった。
三人の間に沈黙が落ちる。
関が静かに言った。
「記録は消せても、写真は消せないよ。」
百目鬼は答えなかった。
ーーー
県警・公安特課の執務室。
書類の束に囲まれた片隅に、一人の男が立っていた。
「……片倉さん。」
声をかけたのはこの公安特課課長の岡田だった。
岡田は彼のことを“班長”とは呼ばなかった。
警視庁からこの部署に復帰した片倉に、役職はない。
ただの一捜査官として、机も持たず、端末すら与えられぬまま、その場にいる。
「……やっぱり、上がっていません。」
岡田の声には、ほんのわずかな戸惑いがあった。
片倉は、小さく息を吐いた。
「ほうか……」
それだけを呟いて、目を伏せた。
仁川征爾の遺体は、いまだに発見されていなかった。
金沢駅での銃撃、爆発、混乱。
数多の証言が彼の死を語っていたにもかかわらず――
――彼自身だけが、どこにも存在していなかった。
沈黙が、公安特課の一角を満たしていた。
岡田は、その沈黙を破ろうとはしなかった。
ーー
石川県庁、19階の展望階――
夕刻の風がガラス越しに吹き込み、静かな音を立てている。
誰にも知られず、片倉はこの場所に何度も足を運んでいる。
遠くに見える金沢駅の方角には、まだ一部がブルーシートで覆われたままのビルがあった。
背後で、足音がした。
「……お父さん。」
振り返らずとも、それが京子の声であることはすぐに分かった。
彼女は手に、封筒を持っていた。
「書いてきた。ちゃんと、記事にするって言ったでしょ。」
封筒の中には、数枚の原稿用紙。
「五の
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- 频率两周一更
- 发布时间2025年10月4日 UTC 20:00
- 长度17 分钟
- 分级儿童适宜