流れのほとりに

キリスト教たんぽぽ教会

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

  1. Jun 14

    天の恵みに手を開く~御国の三つの景色~(マタイの福音書6章10節)

    序)「御国が来ますように」を教会の中心に据えて ・福音のメッセージは「私たちを(死後の)天国に入れてください」という方向性ではなく、この世界全体が、神様の祝福にあずかり、人の罪によって歪んだ世界が贖われて新しくされる(=神の国の成就)ことに中心がある。教会は「天国の待合室」ではなく「神の国の出張所」である。 1)「雨」にもいろいろあるように ・マタイの福音書では「神の国」という言葉より「天の御国」という言葉が目立つ。これは「神」という言葉を避けたユダヤ人に配慮した表現? →それではマタイの福音書 6 章 33 節や 19 章 23~24 節が説明できない。 ・「神の国」と「天の御国」は似ていて、重なるところはあるが違う強調点をもっている。マタイはさらに「父の御国」という用語も使う。 ・「神の国」という大きなカテゴリーの中に「天の御国」、「父の御国」、狭い意味での「神の国」という使い分けがある。 2)「種」「花」「花園」~主の祈りで祈ること~ ・種:天の御国は、天にある王としての権威の総体、神様の主権を指す。 ・花:(狭い意味での)神の国は、天の王権が「地上」で実態を伴った状態。 ・花園:父の御国は、キリストの再臨によって完成される世界。 ・主の祈りの「御国」の直訳は「あなたの国」で、文脈上「父」と「天におられる方」の 2 つにかかる。 →「父の御国が来ますように」=再臨によって起こる世界の完成を祈る。 →「天の御国が来ますように」=天の王座と「今・ここ」の私たちが「つながりますように」という祈りである。 3)ダニエル書が教える「天の御国」とのつながり方 ・ネブカドネツァル王が獣から人間に戻るところで、ネブカドネツァル王が「天の御国」を悟る。いま、目の前の現実がどうであれ、天の御国は、変わらずにずっとあり、すべてを包んでいる。 ・「天の御国が近づいた」はタイミングの接近という意味ではなく「天の御国」は遠い所ではなく、いつでも、あなたの真上にあるということ。 ・天の御国が来る(=天の御国とつながる)条件は「へりくだって身を低くする」こと。これは福音書で「心の貧しい者」と描かれる。 ・「心の貧しさ」は精神的貧困や、自己肯定感の低さではない。 結)手を開いて、恵みを数える祈りへ ・私は恵みを忘れて、自分の手柄の有無、自分の過去を握っていないか。

    46 min
  2. Jun 7

    聖名を帯びたコパンとして(主の祈り②)(マタイの福音書6章9節)

    序)「祈り」が「願い」になりやすい私たち ・「祈り」…神様の心のとおりに私たちが動かされること ・「願い」…私たちの言葉通りに神さまに動いてもらうこと ・「御名を崇めさせたまえ」は、心からの礼拝を求めているようで、神様を鼓舞するようなニュアンスを抱いてしまうかもしれない。 1)「あなたがここに置かれた御名が」 ・「御名が汚される」≒不名誉な事柄によって好ましくない評判が与えられること「汚名を着せられる」ことである。 ・神様は失敗することがないのでご自身を原因として、御名が汚されることはない。神の名を帯びた者によって、御名が汚される。 ・神の名を帯びたもの(御名が置かれたもの)とは、神の祝福を受ける者(民数記 6:27)であり、神殿である。(Ⅰ列王 8:29) ・御名を汚すことができるのは、私たちである。天において神の名は永遠に聖であるが、地の上においては、私たち次第である。 2)「御名を汚す」しくじりとは何か ・御名を汚す「しくじり」とは、罪を犯すことや失敗することではなく、「罪を罪と思わないで、自分を正しいとすること」「失敗や罪を隠蔽すること」である。→隠蔽は「神様は失敗や罪を赦すことのできない、心の狭い方である」「神の目は盲目で、隠すことが可能である」ということを告白する行為。愛と赦しの神は、他の神々と比較にならない卓越した神の性質(=聖)だが、それを信じて行動しないなら、汚す行為となる。 ・神の聖(完全性)を信じるなら、私たちは不完全で成長する存在だと認めることになる。悔い改めや改善を放棄するなら思い上がりである。 3)聖なるものと「されますように」 ・神様は私たちをご自分の「聖」に与らせようとしてくださることも忘れてはならない。神様は、私たちの名をもってご自分が呼ばれること(〇〇さんの神)を求められる。 ・「聖なるものとなりますように(私、頑張ります!)」でもない。これは神的受動態である。主導権は神が取るが、私たちは自分を差し出すことが求められている。 結)「御名が置かれた天と地を結ぶ柱」として ・聖霊に自らを探られ、自分を開くことなしには祈りは「呪文」になる。

    37 min
  3. May 31

    この地に、コパンと共に立つ(主の祈り①)(マタイの福音書6章9節ab)

    序)「コパン(いのちのパンを共に食べる仲間)」と祈る「主の祈り」 ・ユダヤ人の文章の綴り方は「山登り」のように中心に重要事項を置く。 ・「山上の説教(5~7 章)」は、一つの山であり「主の祈り」が頂上にある。 ・「主の祈り」も 7 つの要素で構成された山で中心は「日毎のパン(糧)」! 1)「祈り(プロスエウコマイ)」の再定義 ・「祈り」と「願い」は重なる部分がないわけではないが、区別できる。 ・神は、人間の「願い」を「求める前」から知っている。(8 節) ・「プロスエウコマイ」のコアは顔と顔を合わせるほどの至近距離に身を置くこと。そこで起こることは、冗長な願いのリストを伝えるのではなく神の心、神の語り掛けを聞き取ること。 ・「主の祈り」は「イエス様公認のお願い事リスト」ではなく「父の語り掛けを聞き取る備え」であり、言葉の後の「間」が重要になる。 2)「父よ」「私たちの父よ」 ・この呼びかけは神の性別を教えるものではない。「源」という意味であり、自分が「子」であることを自覚させる。 ・この親しみをこめた呼びかけは、当時の人々には驚くべきことだった。神と人の間には幕があり、断絶があり、数々のいけにえと準備が必要だった。それを手ぶらで「父よ」と飛び越える革命的な「道」である。 ・この「道」はイエスの十字架で開かれた、いのちがけの道。 ・「父よ」と呼びかける時、私たちはイエスの御名で祈っている。 ・「私たちの父よ」と呼びかけるとき、神の家族(コパン)の一員であることを自覚する。一人ひとりが「人類代表」であることを自覚する時、わがままな願いは消えていく。 3)「天におられる方よ」 ・この言葉は、至近距離から遠ざかる感覚を呼び起こすが、これは視点、視野の違いを自覚させる言葉。伝道者 5:1~2 が背景にある。 ・父は、天からの視野で私たちの知らないことを知っている。だから伝えることより、聞くことに価値がある。それゆえ「言葉を少なくせよ」 結)「天と地を結ぶ柱」として共に立つ ・父は「天」におられるゆえに「地」に触れることができない。でも、そのために「私たち(子)」が存在している。 ・「主の祈り」を積み重ねる時、私たちは天と地を結ぶ「柱」になる。

    43 min
  4. May 24

    手を強くして、平和の広場を(ゼカリヤ書8章9節~17節)

    序)バッテリー切れのスマホのようになるとき ・聖書に示された神の壮大な計画は、世界全体を神の祝福で満たすこと。 ・第一段階:神に背いた人々を赦して受入れ、ご自分の家族にすること。 ・第二段階:神の民となった人々を用いて神殿(=天の恵みを地に流すパイプ)を建てること。→旧約においてこの神殿の力はソロモンをピークに減衰し、失われてしまう。ゼカリヤの時代、再建は進んでいたが神の臨在は戻らなかった。 1)「万軍の主」にこめられた意味 ・「万軍(ヘブル語:ツェバー)」は武力的な意味ももつが「奉仕者」という意味があり、「万軍の主」には、天の使い達と相談・協議して計画を進める知恵深い王という意味がある。Cf.「三人寄れば文殊の知恵」 ・「万軍の主のことば」には「天の総会」を経て決定された「総会決定」という意味と重みがある。 2)七つの総会決定を通して提示される神の計画 ① 「神の愛の激しさは変わらない」…神の愛の意志がすべての土台 → どんな状況にあっても、神の愛は揺らがないことを受け入れよう。 ② 「当初の予定は変更されない」…エルサレム(シオン)から始まる →これが実現したのが、ペンテコステ(聖霊降臨)である。 ③ 「未来の平和(シャローム)のビジョン」…ペンテコステの目的 → お年寄りが悠々と過ごし子どもが遊べることが平和の証し ➃ 人間には難しく見えても、神にとって難しいことではない。 → 「民の残りの者」とは、神の約束された未来に立ち会う人々 ⑤ 「救いを実現するエージェント(モーシア)を立てる」 → 一義的にはキュロス王が神殿再建の環境を整えることを指す。 ⑥ 「勇気を出せ(=手を強くせよ)…神殿を建てるために」 → 過去に「のろい」となってしまった現実を認めても、卑屈になるな! ⑦ 「互いに真実を語り合い、愛し合え」…それが神殿を主の霊で満たす → 礼拝に集まっても相互の愛が表されないなら、神殿にはならない。 結)私たちの経験を、さらに ・たんぽぽ教会の駐車場は、「平和の広場」になり始めている。 ・「私たちは祝福となる」と神様が決められた。 ・府中市は「平和宣言都市」であるが、私たちが神殿として築き上げられていくことによって、その内実を満たす。

    50 min
  5. May 17

    主の恵みはとこしえまで(詩篇136篇1節~26節)

    序)響き合う賛美~約束の地での再会~ ・詩篇 136 篇は、バビロン捕囚から祖国へ帰還したイスラエルの民が、再建された礼拝の場で声を合わせて歌った喜びの歌。 ・「主の恵みはとこしえまで」というリフレインが全編に渡って繰り返される。この繰り返しの響きそのものが、神の変わらぬ御姿を浮かび上がらせる。 1)感謝の「理由」~「なぜならば」という確信~(1~3 節) ・冒頭の「感謝せよ」という呼びかけは、単なる道徳的な命令や義務ではない。 ・各節の後半には「なぜならば(キー)」という接続詞が隠されており、感謝を捧げるべき明確な根拠が示されている。 ・「恵み(ヘセド)」とは、移り気な感情ではなく、神が結ばれた契約に基づく「誠実な慈愛」。その恵みが過去・現在・未来と、とこしえに途切れることなく注がれていることへの再発見。 2)恵みのヒストリーツアー~宇宙から個人の歩みへ~(4~25 節) ・天地創造(5-9 節): 壮大なスケールで語られる世界の始まり。日々の光、月、星の運行さえも、神の恵みが形となったものである。 ・出エジプト(10-22 節): 視点は具体的な歴史へ。出エジプト、葦の海の奇跡、400 年の時を経て与えられた約束の地。世代を超えて語り継がれてきた「不思議なわざ」を今の恵みとして受け止める。 ・苦難の中の顧み(23-24 節): 卑しめられたとき(捕囚など)も、主は私たちを忘れず、心に留めておられた。自分たちの行い故に陥った苦悩の状況にあっても、主の救いの御手は差し伸べられていた。 ・今、ここにある養い(v25): 遠い過去の出来事ではなく、今日必要なパンを与え、いのちを支えておられる主の現在進行形の恵み。 結)天を仰ぎ、恵みに包まれて歩み出す(v26) ・「天の神に感謝せよ」という結びは、再び私たちの視点を神の主権へと引き上げる。 ・気分の浮き沈みや忙しさに翻弄される日常の中にあっても、日は昇り、風は吹く。その当たり前の光景の中に、主の変わらぬ「ヘセド」が満ちている。 ・喜びの時も嘆きの時も、神の大きな恵みの物語の中に生かされている驚きをもって、新しい一週間の歩みへと遣わされていきましょう。

    30 min
  6. May 10

    神の国を見る(ヨハネの福音書3章1節~15節)

    1)神の国を求めていたニコデモ ・ニコデモは高い地位と学識を持つ指導者であり、ローマ帝国の支配から解放される「神の国(神の支配)」を熱心に求めていた。 ・ユダヤ人は救世主を待ち望んでいたが、現実は変わらず、うまくいかないもどかしさを抱えていた。 ・数々のしるしを行い、神の国を語るイエスの噂を聞き、ニコデモは「まことの教師」として教えを請うために彼のもとを訪ねる。 2)水と御霊によって生まれ変わること ・イエスはニコデモに「新しく(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語り、人間の努力や行いによる救いを明確に否定した。 ・神の国に入るには、水(悔い改め)で過去を洗い流し、御霊(聖霊)による新しいいのちを与えられなければならない。 ・新しく生まれることは神の御業である。聖霊の働きは、いつどこへ吹くかわからない「風」のようなもの。 ・私たちは自分の力で握りしめる(あるいは放棄する)のではなく、開いた手で神の働きに身を「委ねる」ことが求められている。 3)掲げられる十字架(ニコデモの 2 つの疑問への回答) ・「どうして生まれ変われるのか」「何に信頼すればよいのか」という疑問に対し、イエスは荒野で掲げられた「青銅の蛇」を引用する。 ・毒蛇に噛まれ死に直面した民が、青銅の蛇を「仰ぎ見る」だけで生きたように、イエスもまた十字架に掲げられなければならない。 ・生まれ変わったことの確かさと信頼の土台は、ただ「掲げられた十字架」を仰ぎ見ることにある。 ・十字架のキリストを信じる者は誰でも、新しく生まれ変わり、永遠のいのちを持ち、この地上にいながら神の国を見る特権を得る。 結)まとめ ・自らの努力や執着、過去のもどかしさを手放し、今日、掲げられた十字架を仰ぎ見て、御霊によって新しく生まれ変わりたいと願いませんか。

    37 min
  7. May 3

    いのちのパンの目的(ダニエル書4章29節~37節)

    序)あるキリスト教学校の校是「人になれ、奉仕せよ」 ・姿かたちは人間なのに、人間らしくない在り方、生き方がある。 ・聖書が提示する救いは、獣にならずに人間として完成することと言える。 ・獣化する力に抗うには、信仰・希望・愛が必要。これを日々供給するのが「いのちのパン」であり「人間らしさ」は「奉仕(逆三角形)」に現れる。 1)ネブカドネツァル王の変化~高ぶる者からへりくだる賛美へ~ ・4 章は「平和の挨拶」と「賛美」で包まれている。 ・「心安らかに過ごし」は戦争がない状態を意味する。栄華の極みにあって王の心には「恐れ」があった。 ・宇宙大の樹木は王の業績を表している。「バビロンの空中庭園」という伝説が残るほど、その都の街並みは美しかった。 ・力によってのし上がった世界では、力を維持しなければいけないというプレッシャーに苛まれる。ネブカドネツァル王が知らなくてはならなかったのは、彼のもたらした文明や成功は神の恵みであるということ。 ・この真理を受け入れずに自分の手柄として握り続けるなら病に陥り、執務不能になる(人間の中から追い出される)ことが、夢の警告だった。 2)ネブカドネツァル回復の秘訣 ・夢の警告は実現してしまうが、王は理性を取り戻し、王座も取り戻す。 ・回復の秘訣①「目を挙げて天を見た」…まことの神様と出会い、その恵みを悟り、へりくだって人間としての立ち位置をわきまえた。霊的回復が、不要なプレッシャーから解放される土台となった。 ・回復の秘訣②「いのちのパン」で養われたから。「牛のように草を食べ」という表現はよく考えると違和感がある。「獣」に堕した割に穏やかなイメージである。ここには「肉」と「草」の対比がある。 ・1章で王のごちそう(バテパグ)は牛肉をメインに構成され、ダニエルたちの「いのちのパン」は「野菜(草)」だった。草は、獣から人間へと回復するための癒しの道を象徴している。 ・回復の秘訣③ダニエルの存在が、王室の混乱からネブカドネツァル王を守った。 結)「いのちのパン」を食べる目的~ともに天を仰ぎ、十字架の道を進む ・私たちもネブカドネツァル王のように何らかの責任を委ねられ、天の恵みを地に流し、誰かのいのちを養う奉仕に招かれている。繁栄を求めるのは自然なことだが、栄光を神に返すへりくだった礼拝が欠かせない。 ・獣の道に迷いこんでしまう時、ダニエルが必要になる。その弱さを理解し、あざ笑わず、寄り添う。「いのちのパン」で養われた者は誰かの回復のために自らを差し出す「草」になる。

    47 min
  8. Apr 26

    いのちのパンの働き(ダニエル書2章26節~45節)

    序)いのちのパンと「食診」 ・味の感じ方で、自分の身体の状態を知ることを「食診」という。 ・同じ神のことば(たましいの食事)を聞いても受け取り方は様々である。ここにも食診の機能が働く。神のことばには自分の「心の思い」を知らせる働きがある。 1)ダニエル書 2 章読解のための予備知識~古代の常識~ ・「像(かたち)」はただの芸術作品ではなく何かの「鏡」や「コピー」の機能をもつものと理解されていた。 ・時代の変遷を「金、銀、青銅、鉄」という素材の劣化で表現することは古代世界で広く知られていた。 ・歴史を物語っているようで、眼前の出来事を理解し、批判する文学形式が存在した。(代表例:ヘシオドス『仕事と日』) 2)ネブカドネツァル王が見た夢とその意味 ・王の前に立つ「像」だから、これはネブカドネツァル王の鏡であることは明白であり、足元に弱点があることが見えてくる。 ・「人手によらず切り出された石」は隕石の衝突を思わせ、古代人にとっては、神の介入のシンボルだった。 ・ダニエルの解説によれば「金の頭」がバビロンで、そこから王国がペルシャ、ギリシャ、ローマと変遷していく未来予知のように読める。しかし、それが意味のすべてなら、王にとって何の意味をもつのか。 ・ローマが「鉄と粘土」というのは何の象徴かはっきりしない。天からの石は「イエス様(初臨/再臨)」という解釈もあるが、最後だけ霊的になるのは「ご都合主義的解釈」と批判され得る。 3)ダニエルの解釈に隠されたメッセージ~名料理人ダニエル~ ・この夢は歴史の変遷を語っているようで、現状のバビロンの支配を物語っている。歴史の変遷という語りは、地理的広がりにおける支配の劣化の比喩である。首都においては金のようだが、周辺は脆いということ。 ・古代人は「頭(顔)」を人格の表現部分と考え、「足」は一番コントロールが難しい(手のようには動かせない)部分と考えていた。 ・「この王たちの時代」とは、未来だけでなくネブカドネツァル王の現在も指すことができる表現。(バビロンには地方を治める王が大勢いた。) 結)誰を「頭(かしら)」と仰ぐのか~時代を超える真理~ ・人間を頭と仰ぐなら、その頭との距離感で価値の分断が起こる。 ・天の神(キリスト)を真に「かしら」と仰ぐとき、そこは天の御国となり、神の在り方をこの地上に映し出す鏡(神のかたち)として機能する。 ・ネブカドネツァル王はこの夢を乗り越えようと全身が金の像で対抗しようとする(3 章参照)が NG。強がるのではなく弱さの中に神の力は働く。

    53 min

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