流れのほとりに

キリスト教たんぽぽ教会

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

  1. Nov 1

    叫びを聞き取るイエス(マルコの福音書10章46節~49節)

    序)「道端」に座るバルティマイ ・「道端」という言葉はマルコの福音書 4 章「四つの土地」と関連する。 ・群衆は「土の薄い岩地」、権力闘争中の弟子は「いばらの多い土地」 ・エルサレムへと向かう「良い土地」は主イエスだけであるが、一番ふさわしくないと思われた「道端」から実を結ぶ者が出るのが福音。 1)バルティマイの名が意味すること ・アラム語で「バル」=子の意味。アラム語で「テマイ」は汚れの意味。 ・ギリシャ語で「ティマイ」は「価値ある者」という意味をもつ。 ・「バルティマイ」が光を得て、「ティマイの子」へと変わる福音である。 ・私たちも、内なる「バルティマイ」を宿していることに気づき、その叫びを聞き取ることが、救いへと至る主イエスとの出会いを呼び起こす。 2)バルティマイは、誰の内にも住んでいる ・四つの土地はタイプ別診断ではなく、すべてが人のうちに存在するモードである。クリスチャンでありながら「実を結べない」と葛藤することを隠す必要はない。クリスチャンは、内なるバルティマイが癒され、救われ続ける者である。 ・逆説的なことに、バルティマイだけが主イエスと真に出会う。神は私たちの最も汚れたところで、私たちと出会ってくださる。これを認めないなら、教会は「エリコ」になってしまうだろう。 3)バルティマイを見出すために ・イエス様の後を追って「十字架の形をした人生」を志すとき、従えない自分=バルティマイを見出す。ついて行きたいのに行けないという葛藤こそ、バルティマイの叫びを引き起こす。 ・自分の中にいる「群衆」や「権力志向の弟子」がバルティマイの叫びをかき消そうとする。すべての人の心の「道端」で「バルティマイ」は「私をあわれんでください」と叫んでいる。このことに気づくとき、イエス様との新しい出会いが起こる。 結)立ち止まってくださる主 ・群衆の喧騒の中で、バルティマイの叫びを聞き取り、立ち止まり「心配しないでよい。=大丈夫だよ」と声をかけ包み込む主イエスが今日も生きておられる。 ・この方が、私たちの救い主であり模範である。自分の内なる声を、立ち止まって聞くことを、私たちは学ぶ必要がある。 ・自分のために立ち止まることを学んだ人は、やがて隣人のためにも立ち止まれるようになるだろう。

  2. Oct 25

    天を忘れて生きるにあらず(ピリピ人への手紙3章20節~21節)

    序)「心を高く上げる」 ・キリスト教葬儀の最後の飾花についての説明「元は一粒の種でしかなかったものが、美しい花となって開くのを見て、私たちは、この地上での命が、永遠のいのちへの種であることを覚え、心を高く上げるのです」 ・「心が下がる(落ち込む)」ことは誰にでも起こる。下を向くばかりでは生きていくことが難しい。 1)「心を上げる」ためのスペース(時間) ・サッカーでも、ボールを受け取ったプレイヤーの「顔が上がる」かどうかが勝敗を決すると言われる。プレッシャーがかかると足元ばかりに目が行き、視野が狭くなる。上手な選手(あるいはチーム)は、スペースのある所でボールを受けるので、顔が上がる。 ・私たちの人生において「心を上げる」ためのスペースは、礼拝である。 ・礼拝において、人生の大局(全体像)を思い起こすと「心が上がる」。 2)「召天者」―その意味 ・「キリスト・イエスによって神が上(松竹梅の「松」のようなイメージ)に召してくださるという、その賞をいただく(ピリピ3:14)」という聖書の言葉に由来する。「松のからだ」=「からだのよみがえり」 ・「召天者」とは表彰式を待つばかりになっている人々のこと。未来のその日まで、先に亡くなった方々は眠っている。 ・したがって、お墓というのは表彰式に立つための「待ち合わせ場所」である。生き焦ることをせず、「自分の試合」をやり切ることが大切。 ・私たち人間は、始まりこそ有限だが、永遠へと招かれている。 ・心を上げて生きることは、誰かを幸せにするためのゆとりをもつこと。 3)「私たちの国籍は天にある」ことを思い起こす ・「国籍」という言葉は古代と現代で意味がまるで変わってしまった。今日の「国籍」は戻るべきところだが、古代の「国籍」は「出資元(バックアップスポンサー)」という意味をもっている。 ・「国籍が天にある」とは、天からの代表として、今、この地上を生きるということを意味している。 ・「からだのよみがえり」もこの天の力によって起こる。「卑しいからだ」とは「低級の(梅)のからだ」のことで、老いや病、そして死が避けられない。 ・「天」は、境目がなく、ひとつであり、誰でもアクセスできる。天におられる神様が、すべての人の父として目を留めていてくださる。 結)「天を忘れて生きるにあらず」 ・自分の国籍を忘れて余裕を失う私たちは、何度でも心を上げられる。

  3. Oct 18

    エリコに付き合うイエス(マルコの福音書10章46節)

    序)人生の旅を福音書で読む ・「エリコに着いた」というのは「エルサレムに上る(10:32)」という十字架にかかり、よみがえる旅の途中である。十字架は神を愛し人を愛することの極致であり、十字架の形をした人生が私たちの目指すもの。 ・自分の人生をイエス様の旅と重ねながら読むのが福音書の読み方。 1)「エリコに着いた」のはよかったのか? ・「さて」と訳されているが、接続詞カイ(and)なので「そうして」と訳すなら、直前の出来事と関連づけられる。 ・直前に起きていたのは弟子たちの権力闘争。「皆のしもべになりなさい」とのイエス様の教えがどう受け取られたかを書かずに「そうして一行はエリコに着いた」と記される。 ・「皆のしもべになる」のがエルサレムなら「一番偉くなろう」とするのがエリコの町に象徴される。 ・エリコはこの当時、武力によって理想の実現を目指す輩の巣窟だった。 ・ここで主語は「一行は」となっておりイエス様が先頭に立つエルサレムへの道から逸れている。イエス様が主語になるのは「出ていく」時。 2)エリコに付き合ってくださるイエス様 ・エリコといえば、ヨシュア記の冒頭で滅ぼされる町だが、人間ヨシュアの要らない工作により、要らない戦争の始まった場所である。 ・ヨシュアはこの町の再建が起こらないように宣言したが、この時代ヘロデ王によって再建されており、第一次ユダヤ戦争の前線基地になる。 ・このエリコに「着いてしまう」弟子たちの姿を思い巡らす時、自分の姿と重なってくる。愚かな椅子取りゲームは誰にも心当たりがあるのではないか。 ・ここに込められた福音は、この愚かな弟子の「一行」にイエス様も含まれてくださること。エリコに入れば、イエス様は暴力的メシアとして担ぎ上げられる(誤解される)リスクがあったが、弟子たちを引き出すまで見放さない。 3)「共に生きる」という福音 ・私たちは自分の基準で(それが聖書の基準と一致していたとしても)、良くない目標、目的地を掲げる人たちとどう関わるのか。一線を引いて、汚れから身を守るのか。イエス様はエリコに付き合うが、長く留まる(同化)こともしなかった。 ・十字架に至る道に「エリコ」が含まれることがあり得るということ。エリコは目指すべきものではない。しかし、共に生きる仲間が迷い込む時イエス様とともに、エリコに付き合うことも「道」である。 結)離れていると思っていても、共におられるイエス ・イエス様は「悔い改め、ちゃんとするまでは遠い方」ではない。

  4. Oct 11

    イエスによって目が開かれる(ヨハネの福音書9章1節~12節)

    1)神のわざが現れるために ・生まれつき目の見えない男の人を見て、弟子たちは「だれが罪を犯したからですか」と尋ねたが、イエスは「神のわざが現れるためです」と答えられた。 ・イエスは目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように言われた。男は、わけがわからないまま、そのことばに従った。 2)「知りません」(12 節) ・目が見えるようになった男は、そのまま帰って行き、イエスがどこにいるのかを「知りません」と答えた。 ・恵みや癒しを受けても、与えてくださった方を考えないなら、心の目は閉じたままになってしまう。 3)「預言者です」(17 節) ・パリサイ人に問い詰められる中で、してもらったことを考え、イエスを「預言者」と呼ぶようになった。 ・信仰の一歩に時間がかかってもよい。焦る必要はなく、背後で神が働いておられる。 4)「主よ、信じます」(38 節) ・両親が口を閉ざす中、男は会堂から追放される危険を知りながら、イエスにしてもらったことを証しした。 ・追い出された彼をイエスが探しに来られ、男は「主よ、信じます」と告白してイエスを礼拝した。 ・目が開かれたのは、イエスをその目で見て、信じるためだった。 まとめ ・イエスの奇跡は、今私たちに十字架と復活という形で示されています。そのイエスにどのように応答しますか。

  5. Oct 4

    創造主が味方なら(ヨシュア記17章14節~18節)

    序)ヨシュア記の「本論」が意味すること ・ヨシュアの「偵察」によって開かれたしまった戦いがようやく収まり、約束の地の「割り当て」(ヨシュア記の本論)が 12~21 章で記される。 ・古代社会において東西南北に線を引いて四角形の土地を設定するのは神殿を建てる時のみ。これは全地を主の臨在の場にする壮大なビジョン。 1)約束の地を上手く受け取れないイスラエル ・神様の前で行われた「くじ引き」で割り当てを受けた各部族だが、先に住んでいる人がいるため、空き地に住むほかない。そこで約束の地をうまく受け取れない(文句を言う/逃げ腰になる)という問題が起こる。 ・18 章 1 節が「割り当て物語」の中心軸で「会見の天幕」の存在は、神様が共にいることの証しであり、臨在によって「地が服する(従えることができる)」という約束と励ましを意味した。cf 創世記 1:28 →「約束の地をうまく受け取れない」とは、自分という存在を「祝福」として受け取れない人間の姿を指す。 2)約束の地に文句を言うヨセフ族への挑戦 ・ヨセフ族の文句は、人口が多いのに「森林の多い山地」が割り当て地だったこと。そこには、規模の小さいペリジ人やレファイム人が住んでいたが、大部族には適さない土地。 ・ヨシュアの答えは「森を切り開け」だった。「切り開け(ベレー)」というヘブル語がポイント!これは「創造する(バラー:創世記 1:1)」の強調形である。ヘブル語には同じ綴りで標準形と強調形がある。 ・「学ぶ(標準形)」と「教える(強調形=とても学ぶ必要がある)」という具合。「創造する(神のわざ)」「切り開く(人のわざ=神のわざを土台にして)」ということ。神の創造した世界を神と共に仕上げていくこと。 →私たちも、神の創造の結果存在する。しかし自分自身を含め、この世界を切り開く必要がある。「賜物」も磨かなくては活かされない。 →教会も、神の「新しい創造」だが、その上に「人の創造」を重ねていく時に、神の国が現れていく(神殿になっていく)。 3)「天と地の創造主」を「父」と告白するのだから ・「創造」信仰とは、この世界が偶然の産物ではないということだけでなく、この世界を主にあって「切り開く」決意を求める信仰である。 ・山を切り拓いて力をつけるなら、平地に対して脅威になり、追い払うことができ、主の臨在の場になるはずだった。しかし力をつけたヨセフ族は偶像の力を求めて「追い払わなかった」ことで、その機会を逃した。 結)約束の地をまっすぐ受け取るために ・福音を「私たちの内に行き巡らせる」まで宣べ伝えることが鍵になる。

  6. Sep 27

    立て直しの楔(ヨシュア記8章30節~35節)

    序)不正確な解釈のお詫び ・ヨシュア 8:30 で「築いた」という動詞は特別な形である。ここから「この礼拝が実際に行われたのはもっと後だった」という解釈を 3 年前に提示したが、これは言い過ぎだったことをお詫びし訂正したい。 ・この間違いの原因は「礼拝さえすれば、神様の守りの中で勝利できる、というような安直な人間理解あるいは、呪術的な、オカルトに近い礼拝理解があったから」だと判明した。 1)「こっそり」と行われたヨシュアの過ちから見えるもの ・ヨシュアが 2 章冒頭で「こっそり」偵察を出すところから問題が始まったとすれば、エリコの戦いも当初のシナリオにはなかったことになる。 ・神様のシナリオ(申命記 27:4~7)は、エリコもアイも気にせずにまっすぐエバル山に向かい祭壇を築いて礼拝をささげることだった。 ・それができなかったのは、ヨシュアの常識的な判断と恐怖心のゆえ。エリコやアイを通過せずに北上するルートは「平和の道」だったが神様の守りを計算に入れなければ「平安の道」ではなく、敵に背を見せるとてつもなく危険なルートだった。 2)エバル山のふもとで行われた礼拝~その意義~ ・「全焼のいけにえ」は献身の表現≒現代の礼拝式の献金の要素をもつ。 ・「交わりのいけにえ」は、恵みの分かち合い+食事の交わり ・「みことばの朗読」(聖書朗読と宣教)は、いけにえに先行しただろう。 ・このエバル山での礼拝は、ヨシュア記に 5 つあるピークポイント(転換点)の 2 つ目であり、独断で先制攻撃をした前半の物語が、主に伺いながら、勝利していく後半の物語へと転換するポイントになっている。 ・しかし、過去の間違った選び(戦いの火ぶた)は消えていないので、礼拝は先住民に対して、脅威に映るし、ヨシュアの弱さも継続する。 ・しかし、みことばに聞くことがなければ、立て直しに着手することすらできない。みことばは「立て直しの楔」となって私たちを支える。 3)「祝福」と「のろい」の二択から、「祝福」一択へ ・律法(古い契約)には、「祝福とのろい」の両者があった。しかし、イエス様が十字架において、すべての「のろい」を引き受けてくださったゆえに、私たちには「祝福」しかない。だから礼拝の最後は祝祷。 ・間違った選びに対して「訓練」や「矯正(懲らしめ)」はあるが、のろいではないことを心に留めよう。 結)礼拝を選ぶ信仰、選べない時も消えない祝福 ・世界と人生を立て直す旅において、みことば、礼拝、教会の交わりはそれを支えるための恵みの楔である。

  7. Sep 20

    ノアの箱舟のように(ヨシュア記3章17節)

    序)「ノアの箱舟」と「天地創造」のセット ・創世記の第一部「全人類の物語」(1-11 章)は「天地創造」で始まり「ノアの箱舟」で結ばれる。この 2 つがペアになっている。 ・水に覆われた世界から神の霊(風)によって世界が創造され、洪水によって水に覆われた世界に戻った地上に「風が吹いて」新しい出発をする。 ・どちらも「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の祝福が語られる。 1)「ヨルダン川を渡ること」と「出エジプト(葦の海を渡る)」のセット ・ヨシュア記 4:23 で「ヨルダン川の水を涸らす」ことと「葦の海になさったこと」は「同じ」だと言われている。 ・天地創造→エデンの園を設けたあと、アダムとエバを「仕えること」「守ること」へと招いた。しかし堕落して追放される。 ・出エジプト→イスラエルの民をシナイ山で「主に仕え」「律法を守る」ことへと招く。エデンの園のミニチュアとして「幕屋」を造る。しかし堕落して、約束の地に入れず、荒野をさまよう。 ・アダムの子孫であるノアが→大洪水を潜り抜け、新しい世界へ立つ。 ・イスラエルの第二世代→ヨルダン川を越えて、約束の地に入る。 2)「ノアの箱舟」と「ヨルダン川を渡ること」のセット ・ヨシュア記 3:15-16 を念入りに語り直すのが 3:17 である。 ・「しっかりと立ち止まった」は「水の中に『とどまる(ヌアッハ)』」の言い換えである。「ヌアッハ」は神が置かれた、あるべき所に立つという意味で「安息を与える」とも訳される。ヨシュア記 21:44 参照 ・創世記 8:4「箱舟は…とどまった(ヌアッハ)」と使われる。 ・創世記 8:13「干上がった」「乾いていた」と繰り返される言葉がヨシュア記 3:17 で「乾いたところ」と 2 度繰り返される。 ・祭司たちが担いだ「契約の箱」はノアの箱舟のミニチュアに見えた。 ・イスラエルの民は、新しいノアとその家族として約束の地を踏んだ。 3)「ノアの箱舟」と「バベルの塔」のセット ・創世記において「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は実行されず「バベルの塔」を造るという結末を迎える。(創世記 11 章) ・ヨシュア記の中心部分で、民を各地に割り当てるのは、バベルではなく神の国を生み出すため。しかし従わずにバビロン捕囚に。 結)「ヨルダン川を渡ること」と「キリストにつくバプテスマ」のセット ・場所も、鳩のような御霊も一致して、真の「新しい創造」を指し示す。 ・聖書の大きな計画の中に私たちは生かされている。 ・大祭司イエス様と、教会の仲間とともに、死の水が覆う世界で「ヌアッハ」するなら、いのちの宿る「乾いた地」に変える奇跡を経験する。

  8. Sep 13

    プレッシャーの行き先(ヨシュア記1章12節~2章1節)

    序)目に見えない神様を本気で信じるのは難しい ・ヨシュアは信仰のヒーローではない。私(たち)と同じ弱さをもった人間であり、私(たち)の鏡のような存在である。 1)回想シーンから始まるヨシュア記 ・1:12 のヘブル語の綴り方は極めて稀な例:「その一方で」と訳されているが「ところで」でもよく、時系列が変わることを示唆している。 ・10 節~11 節で「三日のうちに」ヨルダン川を渡ると言われる。この物語は、3:2 に繋がる。1:12~3:1 までは、そこに至る経緯の回想。 ・1:2~9 は、シティムの野を舞台にした、申命記 31 章の反復。 ・1:12~は、ルベン人たちとの会話で、民数記 32 章の確認。 2)ルベン人、ガド人、マナセの半部族からのプレッシャー ・「モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」や「あなたは、ただ強く雄々しくあってください」は、単純な励ましのようにも聞こえるが、部下から新人リーダーへの「圧」でもある。 ・このプレッシャーが 2:1 の行動へとヨシュアを駆り立てる。1:18 と 2:1に区切りはなく、むしろ「それで」と訳してもよい接続詞がある。 ・2:24 でスパイの報告があるが、これも 3:1 に繋がる。「それで」ヨシュアは翌朝早く起き…シティムを旅立ち…」 3)ヨシュアへの神の約束はそのままでは信じられなかった ・「わたしは、あなたとともにいる」は無条件の約束だったが、ヨシュアとしては実績を出さないと証明されないという考え(ルベン人たちの言葉の陰にあるもの)に共感し、実績を出そうと「偵察」を用いた。 ・これは神の平和の計画に対して裏切り行為だったが、ルベン人たちに舐められないための最善の手だとヨシュアは考えただろう。 ・「あなたの前に立ちはだかる者はいない」という約束も偵察の報告によって裏付けられるまでは信じられず、動き出せなかった。 ・私たちはヨシュアを責められるだろうか。 ・「挑戦」と「安心」は時に矛盾する。先回りして「安心」を人間が約束することが「誘惑」になる。 結)「強くあれ、雄々しくあれ」の真の意味 ・この言葉は弱さを隠すことではなく、弱いままで神様の強さに信頼することへの招きである。 ・「ひそかに」偵察を出すより「ひそかに」神様に嘆く方がよかった。 ・「ルベン人、ガド人、マナセの半部族」は「現状維持バイアス」の象徴である。神の言葉に別の裏付けが欲しくなる私たちの弱さを神は知っていて、なお見捨てないでいてくださる。

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