ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

yamamoyama

ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。

  1. Aug 8

    #063「仏に成るとは、私が、阿弥陀仏と一体となり、南無阿弥陀仏の名号になることなのでしょうか?」(頂いた質問)

    ○質問 -- 「南無阿弥陀仏ひとつで私が極楽浄土に生まれ、仏に成る」ことは、本当は、とてつもない話なんだと想像しますが、私の知恵では、仏に成ることの尊さが実感できません。 仏に成るとは、どういうことかも分かりません。 仏に成るとは、私が、阿弥陀仏と一体となり、南無阿弥陀仏の名号になることなのでしょうか? 阿弥陀仏の悟りの境地(世界)は、真如であるから、色も形もないと聞いたことがあるのですが、 この私が阿弥陀仏に救われたら、弥陀同体の仏さまに成らせていただき、還相回向で、また娑婆世界に戻り、身近な人を救うことができると聞いたことがありますが、 仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、と本願をそのまま疑いなく聞けるようになると、私が浄土往生して仏に成ることだけではなく、仏に成ったら、すぐに、また娑婆世界に戻り、苦しみ迷う衆生を自由自在に救うことができることに対しても(還相回向)、疑いなく聞けるようになるのでしょうか? -- 話のなかで出たご文 ○唯信鈔文意 法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(浄土真宗聖典註釈版P710) ○教行信証証巻  一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。(浄土真宗聖典註釈版・P321) --- ⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

  2. Jul 28

    #062「信心獲得すると、「弥陀の本願まこと」と、阿弥陀仏の本願が、歴史的な事実(真実)であると、疑いなく受け入れることができるのでしょうか?」(頂いた質問)

    ○今回は以下の質問について話をしました。 ーーー 第61回目のネットラジオ版安心問答を聞かせていただき、仏願の生起本末を聞いて、その本願に疑いが無くなっても、その本願の内容の詳細までは、人間の知恵では分からずに、ただ、「南無阿弥陀仏ひとつで救われる」「念仏ひとつで浄土往生できて仏に成れる」ということが分かる程度であることが知らされました。 そこで重ねてお尋ねがあります。 歎異抄第二章に、以下の文言がありますが、信心獲得すると、「弥陀の本願まこと」と、阿弥陀仏の本願が、歴史的な事実(真実)であると、疑いなく受け入れることができるのでしょうか? この歎異抄第二章に書いてある内容について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると、ありがたいです。 よろしくお願いします。 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か」    (歎異抄二章) ーー ○話のなかで出たご文 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻) 信心の智慧(左訓)弥陀の誓いは智慧にてましますゆえに信ずる心のいでくるは智慧のおこるとしるべし(表記・漢字仮名遣いを現代に変更)(正像末和讃) --- ⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

  3. Jul 17

    #061 「本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?」(頂いた質問)

    ○今回は以下の質問について話をしました。 --- 浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」ですが、 私には、仏願の生起である、「無常」や「罪悪」が分からず、煩悩悪業によって、流転輪廻していることも分からず、また「後生の一大事」と聞いても、驚きも立たずに、何とも思いません。 また、阿弥陀仏が私一人を救うために、五劫思惟の願や、兆載永劫の行をされて、私を救うための手段として「南無阿弥陀仏」が完成されて(仏願の本)、その本願の名号である「南無阿弥陀仏(念仏の信心)ひとつで救われる」(仏願の末)と聞いても、意味が分からないのですが、これらのことは、本願を疑惑していることになるのでしょうか? 私は、本願を疑惑するというよりも、仏願の生起本末の内容の意味が分からないのです。 本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか? また、本願疑惑心が無くなると、仏願の生起本末の内容の全てに対して、塵露ほどの疑いも無くなるのでしょうか? --- ○話の中で出した御文 ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀してこれを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし」(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P296) --- ⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

  4. Jul 11

    #060 「本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?」(頂いた質問)

    今回は#059を聞かれた方からの質問です。 ○質問 --- 第59回目を聞いて、「阿弥陀仏の本願と私の関係性が非常に大切」だということは理解できたのですが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩だということを聞いて、不審に思いました。 それというのも、親鸞聖人は、以下の文証のように、凡夫の煩悩は死ねまで無くならないと言われているからです。 阿弥陀仏の本願の救いと、煩悩は関係がないと思っていましたが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩であるならば、本願疑惑心や疑情や自力心も死ねまで無くならないということになりませんか? 浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ではないのですか? この疑心が煩悩であるならば、疑心は死ぬまで無くならないことになりませんか? 疑心往生説は、異安心だと聞いたことがあるので、 本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?について、お聖教を根拠にして、ネットラジオ版安心問答でお話を聞かせていただきたいです。 よろしくお願いします。 「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)P693 -- ○話のなかで出したご文 ○教行信証信巻 ○【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(浄土真宗聖典註釈版P251) ○まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P230) ○【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P234) ○教行信証化土巻 ○そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。{乃至}(浄土真宗聖典註釈版P377) --- ⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠

  5. Jul 4

    #059「「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?」(頂いた質問)

    今回は第58回目を聞かれた方から頂いた質問について話をしました。 以下、質問メール --- 第58回目を聞いて、浄土真宗では、あまり「自覚(ハッキリした)」という言葉は使わずに、「聞いた」とか「知らされた」という言葉を使うことが分かりました。 また、浄土真宗では「阿頼耶識」ということは問題にせずに、「煩悩成就の凡夫」が、阿弥陀仏の本願力によって、信心と念仏を回向され、極楽浄土に往生することが分かりました。 そうすると、「変わり続ける私のいのち」というのは、「煩悩成就の凡夫」のことなのでしょうか? また、煩悩しかない私の心に、本願疑惑心(自力の心)があるのは、何故なのでしょうか? 正信偈には、 「還来生死輪転家 決以疑情為所止」とありますが、この「疑情」とは、阿弥陀仏の本願を疑う心のことだと思いますが、この「疑情」は、私の心でははく、煩悩以外の他の何か?なのでしょうか? 今回は、「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか? また、生死輪転を繰り返している根本原因は、何故、「無明煩悩」ではなく、「疑情(本願疑惑心)」なのか? について、詳しく知りたいです。 --- 話の中で出た根拠 ○浄土真宗辞典より 疑情 疑いの心のこと。親鸞は阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。「正信偈」には「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす」(註207)とある。→自力心 自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。 --- 安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠

  6. Jun 23

    #058「二種深信にあるように『曠劫よりこのかた』の過去世のことまで分かるようになるのですか?」について(頂いた質問)

    前回57回目を聞かれた方からの質問です。 ○質問 --- 私には、生まれる前のこと(始まりのない始まりから、生死輪廻を繰り返してきた過去世のこと)は、全く分かりませんが、 信心獲得すると、教行信証の信巻に書いてある「二種深信」のような、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。」ということが、ハッキリと自覚できるのでしょうか? もし、自覚できるとしたら、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と、自身(私)が曠劫より生死輪廻を繰り返してきたことが分かるような文章の内容が書かれていますが、実際は、信心獲得すると、自分自身が生死を繰り返してきた過去世のことまで分かるのでしょうか? また、「自身」と書いてあるように、曠劫から迷いの世界を輪廻してきた「私」(汝)というものが、本当にあるのでしょうか? ちなみに、この「私」の意味は、私や他者が認識している私ではなくて、「永遠のいのち」(自己統一的主体)みたいなイメージです。 最後に、阿弥陀仏の本願は、「阿弥陀さまから見た私」を「只今救うぞ」と、前回のネットラジオでお話をされていましたが、「阿弥陀さまから見た私」を、この私が自覚することが、--本当にできるのでしょうか? --- ○質問 --- それは、「後生の一大事と信心獲得について」です。 信心獲得すると、一体、私の何がお浄土に生まれて仏に成るのか?について知りたいです。 私は、仏教の唯識で言われる「私の阿頼耶識」が、流転輪廻を繰り返していて、常に変わり続けながら、六道輪廻を抜け出せずに、迷い苦しんでいるのではないか?と考えています。 浄土真宗では、一体、私の何が、極楽浄土に生まれて成仏すると教えられているのか?について知りたいです。 --- 話の中で出たご文 ○教行信証信文類 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 ○教行信証証文類 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 --- ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠

  7. Jun 12

    #057「阿弥陀仏は一体、私の何を救って下さるのか?」について(頂いた質問)

    以下の質問について話をしました。 ーーー (略) ここで、根本的なお尋ねがあるのですが、阿弥陀仏は、一体、私の何を救ってくださるのでしょうか? 私の肉体は、死んだら無になります。意識も無くなります。 仏教では、目に見えない「魂」や「霊魂」などの存在も認めないと聞いたことがあります。 では、一体、仏教は何を問題にして、生死輪廻を繰り返している私の正体(本体)は何であり、阿弥陀仏は、「只今私を救う」と仰っているけれども、一体私の何を救ってくださるのか?が分からないので、 今回は、一体、阿弥陀仏は、私の何を救ってくださるのか? 生死輪廻を繰り返している「この私」とは一体何者なのか? そもそも、仏教は何を問題にしているのか? について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると有り難いです。 よろしくお願いします。 ーーー ○話の中で出した話 ・慧能禅師のエピソード 「善を思わず、悪を思わず、正に恁麼の時、いかなるか是れ、明上座、父母未生前の本来の面目」 ・なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(二河白道の譬え) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠

  8. Jun 6

    #056「教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁

    今回は以下の質問について話をしました。 ーーーー 教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」 とありますが、 この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。) もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。 また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ? と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。 さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか? これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか? について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。 ーーーー ○話にでたご文 穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132) ○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ yamamoyama@gmail.com X(⁠⁠@anjinmondou⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠

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