放心サイコキネシス

駒田

『放心サイコキネシス』は坊主と書店員のポッドキャストです。コンセプトは”言葉をひらく。文学、映画、音楽、ニュースや暮らしのあれこれ、その「物」自体は気軽にシェアできるけど、その感触はひらいてみないとわからない!いつもよりすこし時間をかけて、物からポエジーをたぐりよせていく。一億二千万分の一のリスナーのための配信番組です。/放心サイコキネシスではみなさんの「ツイッターの下書き」を募集しています。呟こうと思ったけど結局そのままにしてあるツイート、などを送ると我々が手前勝手に捏ねたりのばしたりします。お付き合いしてくださるかたは下のURLからお願いいたします。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf7T2mfeCdTcIzB1Ji2YTh1_yiB_Hr1ZP-YlK16d9vua3R1Dg/viewform

  1. 07/31/2020

    答えよりもしたたかに――綿矢りさ『私をくいとめて』

    ※かわいい文鳥の鳴き声がはいっています。 ※Skypeによる収録のため、音声の悪い箇所がありますがご容赦ください。 以下、駒田の副読文です。ききながらでも、きくまえでも、きいてからでも。 5;15~ こんな風な言い方ができるのも小説というものの距離の自由で、つまりいつどこでどんな作品と出会うかというのが時代ではなく個人の文脈のほうに寄っている。綿矢りさは自分が小説を読み始めるまえに出会っていて、ある程度小説を読み始めてからそのことを思いだし、実際に作品と合流した。そのときはもうひとしきり読まれていた『蹴りたい背中』を、ほかのひとからみれば「いまさら?」というタイミングで読んだ。けれど『蹴りたい背中』をはじめて読むひと、というのはこれから先にも現れるだろうし、自分はそのあと綿矢りさから離れた(好きにならなかったというよりは、他の作家にのめりこんだ)けれど、ずっと追い続けた読者ももちろんたくさんいると思う。反対に自分はまだ読んだことのない三島由紀夫を一生読まないまま死ぬかもしれないし、このあとぱったり小説自体読まなくなるかもしれない。そんな風にいろんな人生のすべてに組み込まれる可能性として残り続ける小説が数多あるというその存在感をときどき感じることがある。 14:00~ 頭の中にいる存在を「自分」とみとめつつ、そのイメージする姿が「自分」とはまったく似ていない、という図は直感的には捉えづらいのだけど、生活をしていると実感としてわかってくる。自分らしくない自分、という像が自分のなかでいつの間にか形成されていて、厳然として自分なのだけど、それの下す価値判断をどこか他人事として受け止める自分が要る。それは社会との接触や経験のなかで醸成された態度かもしれず、人が何かの軸に基づいて一貫している存在なわけがないという、もしかすると生きていくにあたっては都合の悪い事実がはじめから受け止めて書かれている。 22;00~ そういえば「最悪な気分になることはわかっているけどそれに向かってしまう」、という描写は作中にもあって、幸せに生きることがむずかしいのは現実自体のつらさにくわえて、そういう気持ちを克服できないことにもあるような気がする。幸せになるためのA(Answer)をわかっていながら、その追求に徹しようとすると刹那的な気分が邪魔をしたりする。あるいはその先の先の未来にある虚無を感じて立ち尽くしたりする。幸福を達成できなかったときのために、その要因をあらかじめつくっておくかのように、不幸に突き進んでいたりする。 33:40~ 絶滅しかけていたので保護したら保護環境でしか生きられなくなったカエルというのがいて、人間個人はそれに似ている。住みやすさとはべつに自然は存在していて、それはもうそこに暮らす側の人間からはどうしようもないということ。世界や自分自身に対してどうしようもないことがある、という事実を知るときに、ひととつながることは重荷を増やすようで重苦しくなる。 40:11~ たとえばAの言うことをまっとうにききつづけていれば、あの永井博の世界にいけたのかもしれない、という想像ができる。けれどそれはやっぱり想像のなかでしか現実的に映らないというか、イメージのなかだからこそ味わいのあるリアリティに留まる。 「自分」がどこにいるのかわからないとき、どこかひとつの場所にいると考えることがまずまちがいなのかもしれず、どこにいるのか、という問題設定からまず見直すべきかもしれない。現実に溢れ流れていく私、イメージに溢れ流れていく私、そのどちらをもくいとめて、私は私のなかにいられる。

    56 min
  2. 05/04/2020

    ‘’放心する‘’ということ

    ※かわいい文鳥の鳴き声が入っています。 以下、駒田による副読文。 ・村上春樹のラジオを昔きいたときに不思議な聞き心地があったことをおぼえていて、あれはなんだろう。ふつうに喋っていたら出るはずの「えー」とか「あのー」とかまったくないし、詠嘆もほとんどない、ただ言葉と言葉の間にすこし不自然な間があって、喋っている最中は淀みない。淡々とジャズを紹介する役割をこなしつつ、喋りとしては異質なのにその異質さにはとくにふれられず始終する。はじめは戸惑ったけれど、段々おもしろく思えてくる、いま思うとあれは村上春樹のこわばりだったのかもしれない。あきらかに意図的にそうした喋り方をこころがけていて、その意図への執着がおもしろかった。あれは一種の「放心」だと思う。 そういう目線に立って自分が好きできいているpodcastやラジオをきいていると、やっぱりどこかで「放心」が見られる。どれだけ喋りがうまくてもその瞬間だけは隙がある、というようなこわばりの瞬間。きっとそれがききたくてきいている。 ラジオは基本的にひとりかふたりなど少人数で放送されて、その環境がごく個人的なこだわりを貫き通しやすくしているのではないだろうか。電波としてひらかれていながらそれが発信されている場所自体は広場じゃなくてとても狭いブースであったりする、SNSのように監視のゆきとどいた場所ではあらかじめ気にしてしまって言えないことを言えたりする(結果それがネットニュースになって同じ目に遭ったりはするのだけれど)。とにかくこだわりがこわばりになる。油断しているのではなくて、どうしてもそうしたくなるし、そうしてしまう。たとえ意味が伝わらず、そもそも意味がないのだとしても、自分のそのこだわりに執着してしまう状態、外部からの抑圧がうすく、ある程度自由でリラックスしているらこそそうできてしまう状態、放心。この状態をつくることは、なかなか難しい。 ・ぺこぱの話がすこしでている。自分はぺこぱの漫才が好きだ。ただベルクソン風に言うならぺこぱの漫才をみて自分が「反省」するのはボケのシュウペイではなくてツッコミの松陰寺に対して、ということになる。こういう人間をみたときに”つい注意してしまう自分”を反省している。アンガーマネジメントの一環で、こわばりそのものを緩衝しようという自己研鑽にちかい営みになり、自分はシュウペイをどこまで許して愛でられるか、という方向性を持つ。個人的にはもう、シュウペイには、家で毒ガスつくってたらいっぱいできちゃったからお隣さんちに持っていくとか、そういうボケをしてほしくなっている。そのとき自分はシュウペイと、シュウペイを許す松陰寺のどちらを見るんだろう。 ・生きる柔軟性を失っているひと、と言われればかなり心当たりがあるので自分は比較的「放心家」であるといえるのだろうけれど、だれだっていついかなるときも放心状態というわけではないと思う、自分のpodcastをききなおしていて、いろいろ考えるところはある。未だに緊張するし、いろいろな点で配慮がはたらいている、結果的に放心を意識的に志向するような極めて半端な態度でいることがおおい。たぶんもっと適当にやったほうがいい。とはいえ、一個自分のなかに明確なこだわりがあるとすれば、それは散漫であることだと思う。具体的にいうと、自分でもまだわかってないことを迂闊に喋ってしまうことだ、話にまとまりがなくなり結論らしい場所に着地しないことに自分の放心はある。わかっていることをわかるように喋ることならもうすこしくらいうまくできそう(いやできないかも、でもそれをするならせめて文章でやりたい)だけれど、喋りたいことはあんまりそこにはない、自分は問いたいのであって、回答したいわけではない、ということもふまえて、伝われと念じるように喋っている、それが本当にだれかに伝わったとき、放心サイコキネシスは実現するのかもしれない。でもこの話はここまで書いてみて、アーティストの公式ページでたまにある「それ自分で言う?」って感じのバイオグラフィみたいでやだなって思ってます。

    55 min
  3. 04/21/2020

    雑談:言葉と現実

    ※かわいい文鳥の鳴き声が入っています。 以下、駒田の副読文。 8:25~あたりまえのこととして、言葉はだれもが使う。使うし、発する。「言葉を扱うプロ」という括りをしてさえライターやラジオパーソナリティ、芸人など様々ある、そのなかにおいて小説家がとりわけ言葉をどう発揮するかを考える。それはきっとジャーナリズムでもないしスピードでもない、もしかしたら真実や本質とかいったものも、求められないかもしれない。そもそも求められることを出す仕事ではない気がする。かといって無視を決め込むのか、というとそうでもない。震災のときはあくまで震源地があって、そこから離れていればいるほど当事者性はうすれていた(視座にレイヤーがあった)けれど、今回のこれは全員が当事者だから、無視をするのはすこし無理がある。無理があるというか、公表するか秘匿するかなどはあるにせよかならず生きるうえでなんらかの実践をしているはずで、いま、商いにせよ生活にせよ、あらゆる営為はその意味を強調している。あらゆる営為がなにかを表現をしている。だから、小説を書く、という行為自体への意味もまた強くなっている。なにを書くにせよ、それを一旦引き受けてから書かれる。 10:19~「世界文学」という言葉をあんまり定義してはいないけれど、ここでは現実(世界)を参照して書かれる/読まれる作品、ということで、それはこれまでの文学の分類も変わるかもしれない、否応なく世界の見方が変わってしまったという意味がつよい。だから世界を無視した作品を書くことは盲目的だと感じもする。ただ、すべてのひとが世界とつながって生きているわけではない。すべてのひとが時代と共に生きているわけではない。けれど世界に向けて文学を書いてしまう、というほうがむしろ盲目的なようで、これはどうだろう。 11:40~この収録のあとでみたものですが、アクトビラがyoutubeにも配信しているトーク番組ぷらすと「SFと現実」( https://youtu.be/O_pcu2atyOA )がこのあたりの話をちゃんとしていておもしろいです。 14:10~「自我を保つ」というのが今までは自己顕示欲や他者性に対するリアクションだったのが、もっと巨大なものに対するアクションになったかもしれない。能動的にはたらきかけつづけないとやられる、けれど能動的にはらたきかかえつづけるのはつかれる、という板挟みでくるしい。 18;00~フィクションがなんのためにあるかというのはいちいち考えなくてもよいことだろうとは思うけれど、フィクションがあってよかったとおもうことについてはよく感じておいたほうがいいなと個人的には思っている。目に見えている穴ではなく、自分でもあると気づかなかったちいさな穴を見つけて塞いでくれるものがフィクションであったりする、大きな穴はみんなで直せばいい。小さな穴は、そのそばにいる人だけにしか見えない。なんか、そういう感じのことだと思うんだけどなあ。 24:48~感情の壁についてはこちら( https://note.com/8611/n/n7803b7f36f53 )。 28:46~頭からではない場所にある言葉のことだ。 30:00~長文を完璧に構成しようというのはほとんど無理な話で、ある量からはまったく手に負えないものになっていき、書く側も読む側もそれが完璧なのかの判別さえ不可能になっていく。そういう長文を読む、読もうとするのはそれだけでやさしいことだ。言葉が情報の閾を逸して人間と紐づくにはそれくらいの手間が要りはしないだろうか。それを書く、読む心のひろさもふくめて。短文ならせめて詩として飛躍したい。

    39 min
  4. 04/05/2020

    いつかまた魂の風景について語ろう――『ペドロ・パラモ』

    ※かわいい文鳥の鳴き声がはいっています。 放心サイコキネシスは坊主(ウカイ)と書店員(コマダ)のポッドキャストです。主に文学についてしゃべります。以下は駒田の副読文です。 10:30~命の存在を感じて生をみとめる。時間の存在を感じて死をみとめる。根本的なこのふたつの大いなる価値を失くすことをこの小説は始点としている。やがてそのどちらかに帰結していく物語なら話は簡単なのだけど、『ペドロ・パラモ』はそこをまず置き去りにして飄々「もうひとつの価値」への道をいきはじめる。あるいは価値のないもうひとつの道へ。 13:15~物語は消費される可能性をもっている。人間は頭や心をつかって物語をたくみに解釈し、現実を生き抜く力がある。それは物語に没頭してその物語の示すものに焦点をしぼる、神経を集中する、というような営みで、効果としては瞑想にちかいのかもしれない。我をわすれ、我にかえる。したたかな価値を身体に馴染ませて。いくつもの物語を消費して。 14:00~自分はいまみている風景やできごとに、それとわからず記憶をかさねているのではないか。じぶんのものでさえないような、それこそいままで消費してきた物語のようなものさえ断片にして、この世界にかさねているような気がしてくる。よくできた物語が横に継ぎ目なくひろがる織物のような認識とするなら、半透明のシートを縦に何枚もかさねて浮かんでくる模様のような認識のすがたをしているのが『ペドロ・パラモ』の物語であって、それを物語と呼ぶかどうかはひとによるだろうけれど、とにかく記憶の感覚にたいするリアリティがつよくある。記憶の感覚を物語化したらこうなるのかもしれない。それが魂の自然のすがたなのかもしれないと素朴に感じてしまうような本。 28:34~「(『ペドロ・パラモ』は)こう書くしかなかった」「語りの動機はこの小説のなかにはない。けれどそれを語る熱量だけ感じる」こう感じることについて思いを馳せる。自分はもうすでに『ペドロ・パラモ』の話の筋をわすれつつあるけれど、そのことだけいくらでも思う。それによってのみこの小説がいつまでも好きでいられる。 31:14~わたしたちはもはや世界を単一の視点でみていないのでないか、という疑問がときおり頭をもたげる。それであってこそ単一視点の語りにまたふたたび意味が宿るのだとは思う。けれどそうした変容を一旦は受け止めるターンが必要なのではないか、考え過ぎだろうか。 33:14~「語る」という行為は前提として能動的営為である。けれどそれは前提なのであまり意識されない。 40:27~これはまったく共感されない話なんですが、人称のない言葉、というものを想定するとき。雑草が生えるように言葉が生えてくるとき、その言葉は理解できるか、という話はまるで手におえなくてもかんがえ続けていきたいことだなとおもう。 44:23~そういう意味ではいまはひどく「語りやすい」世界です。ここで話されている問題提起はだから、いまはあまり重要でないのかもしれません。でも、おそかれはやかれまたそういう話はかえってきます。平和を早とちりしたこの牧歌的な思索が切実さをつれて立ち現れるでしょう。と、おおげさに予言しておきます。

    50 min
  5. 03/21/2020

    意味があることの耐え難い苦痛と、無意味であることの耐え難い困難 そして『アサッテの人』

    10:30~メタフィクションはどう解釈しても最終「~という形で(現実として)小説が著されている」という大いなるマウントで組み伏せてくる節があって、虚を突くような言葉でしかオリジナルの評をくだせなそうな雰囲気があるけれど、『アサッテの人』に関してはその幅をひろくとる、とろうとする愛嬌が実はあって、それがいい。ただそのためには読みながらこの語り手をどこかの地点で人間的に信用して、くつろいで読む関係性が要るな、とは感じる。自分はあらゆる本をくつろいで読みたい。 13:00~キャラクターを設定するとき、それがたとえ”ひとりでにうごきだす”のだとしても、自分や歴史があるデータベースを持っていてそこから要素を引っ張ってきているという、その意識自体を訝る気がある。とはいえ訝ればいくらでも訝れて果てがないから折り合いはつけるのだけど、ではなんで折り合いをつけてまで「キャラクター」をのぞむんだろう。作家がフィクションを疑いながらフィクションを愛してしまうのは、なんでだろう。 19:00~変化するキャラクターとしての「私」はあらゆるべつのものとの対話することができる立場にある。『アサッテの人』を書くという目的に向かいながら他者(自分をふくめた)という「アサッテ」を受け止めていく、これは愛。 26:11~余談だけれど素直に書く、という行為は健康優良不良少年という感じ、心身ともに快くて苦しい(苦しいのが快い、あるいはその逆という因果ではない両義性)感覚を伴う、フィクションでもノンフィクションでも、書くという行為はそれ自体がフィクションであり、それ自体がノンフィクション。 29:41~意味はある量からある着地点を失ってベクトル、ニュアンスというような概念になっていく、その速度はそれぞれだけれど、ついにはすべてそうなるし、そうならないように抑制された文章というのは意味のサプリメント的に自己啓発やライフハックに使われる。創作には向かないとはおもう。おもうけどどうだか。 32:00~自分がのがれがたく意味を価値とする世界観に生きていて、そのなかにあって物語は、ある種の価値のプレゼンに陥ることがあるからこわくて、べつにこわがることはないのかもしれないのだけど時代柄すこしくらい危機意識をもっておいても損はないともおもう。意味はある、けれど意味にことさら価値はない、というバランス感覚を保つことの困難を実践していくことが、ひとつ脱皮した物語なんだろうとおもったり、おもわなかったりする。 意味、という字をみているとそもそもこれは凄味や滋味とかいったはっきり共有できないたぐいの指し言葉なのかもしれんとおもうようになった。漢字みたいに記号で固定する、という人為に支えられている。人為の物語/自然の物語という区別を自分はなんとなくしている。それは区別ではなくもっとグラデーションにみちた曖昧なものなのだろうけど、人為の物語的であるほど、共有することに長けている。で、共有されるほど実益がありそうにみえる。そういうインターフェースに生きているひとのおおさにたまらなく広告屋精神を感じる。みんながみんなPVや再生回数を気にして不健康になるより、自然な物語を自分のうちにひとつでも抱いていたほうが健康だろうとおもうのは、ごく個人的な嗜好なんだけど。なんだけど。

    47 min
  6. 03/08/2020

    「私の心」は私たちの炎のなかで――物語、感情、『サブリナ』

    ※ときどききこえる鳥の鳴き声は、パワーという文鳥のものです。以下、駒田による副読文。 7:40~絵描きが絵をかくように物語をつくりあげている感覚。フレームの意識とプロットの意識を、どちらも譲歩しないまま織り込まれている。ほんとうにすごいとおもう。完全に完成されたものだなあ、とおもう。 11:55~あらためて考えてみるとあんまないこともなかったかもしれないのだけど、インターネットがひとの生きる人生において、有益(FPSたのしい)なものからノイズになっていく過程がクリアだからそういう印象をもったのだとおもう。 15:30~どれだけ世界に思いを馳せても自分の身体はオフラインのこの、ここにある、生活もここにある。そこは逃げ場ではなくて、そこが自分にとってはあくまで舞台であるという、であるはずのそれが転覆することへのこわさがある。 20:00~触覚や味覚のように物語がある。それは自分の感覚として自分の内部にあるものなのに、まるで外部にあるように取り扱われることがほとんど、外部にあるのはほかのだれかの物語の〈表出〉でしかない、というのはけれどやっぱりつかみにくい話ではある。 22:42~生活とインターネットがもうどうしようもなく地続きなんだなあとつくづく感じさせることをしている。「相互的に影響をあたえる」という言い方をここでは選んでいるけれど、実感としては「お互いを侵食しあっている」。 24:50~インターネットが「部室」から「教室」になったのはいつなのだろう。 26:07~インターネットがオフラインであるとき、インターネットからみればそのひとは世界からログアウトしているようにみえる。そのひとにとっては逆であっても、インターネットというその窓からしかそのひとをみれない人々は、そのひとが世界にいないと感じる。ソーシャルに参画していない、という誤読がおこる。物語がどこにあるのか、だれの物語がどこにあるのかというその座標を冷静にみとめていかないと混乱してしまう。 28:12~こうした「読み手に解釈させる余白のおおさ」を埋めてしまうのがインターネットだよねみたいな、読み手に読み取らせてそこから人々が生む物語をニック・ドルナソは観察しようとしている、とかんがえるのは穿ちすぎている、いるのだけれどいないとも言い切れない、そうした底しれなさの底にいる。 40:51~「AはBだからCになった」のABCは意外とそれぞれが代替可能であったりして、それを説得するのはABC以外の外部、語り口だったり所作だったり人柄だったりする。 45:30~心という薪を自分のものなかで灯すかインターネットにくべてみんなで燃やすかという選択肢がある。いつも。ここにも。

    48 min
  7. 02/23/2020

    古川真人『背高泡立草』まなざしという名の語り手

    ※ときどききこえる鳴き声は、パワーというなまえの文鳥のものです。ご容赦ください。 以下駒田の書く副読文です。 9:25~ インタビューで「雑草を刈る話だから文章も草が生えてるみたいなイメージで書いた」と言っているのを見た。安直ですけど、とも言っていたけれどこれは良い話だと思った。作中のモチーフと、階層のちがう文章のモチーフを揃えることで強度は高まる。草のイメージをもってこの小説に関するトピックと接するといろいろみえるのかもしれない。 13:15~ 収録時いろんな休みがつづいていて、人とたくさんあったのでその実感がこもっている。なにかにつきあってあげたり、つきあってもらうのうちにひたすら感情がある。 21:20~ あるいはこの「〈私〉に興味がない」という態度と「この小説が私小説である(になっている)」という事実のあわいからひろがってこのあたらしい私性が出てきているともいえる。他者に向けるまなざしの先 はるか遠くにいる〈私〉……? 25.20~ 土地になろうとする態度と、土地にはなれないという事実が(ry 28:00~ このへんのこだわりを唾棄すべき余戯とみてもいいけれど、意味内容で語れることは乏しいとおもうので、これがどういうテーゼをもった物語かというのには正直関心がもてない。とはいえ興味はあるので、そこに関心のある人の話はききたい。 33:10~ 分私小説と言いたかったのだとおもう。べつに書いた記事(noteにて)との関連があるのでよかったらどうぞ。 37:20~ 「ぼんやり眺めているのであった」から連想している。>まなざし 41:00~ 総体的

    44 min
  8. 02/09/2020

    ショーン・プレスコット『穴の町』――語り、ゲーム、虚構性

    ※ときどききこえる鳴き声は、パワーというなまえの文鳥のものです。ご容赦ください。 以下駒田の書く副読文です。 8:15~「寓話的といえば寓話的なんやけど、とてもおもしろい非現実を現実に当てはめて描いている(鵜)」……『穴の町』はいくつかの出来事をのぞいては概ねリアリズムに則っている、いるけれど実際には逸脱気味のモチーフでひろげられている。その浮世離れするイメージを地面にしばりつけているのが地続きで報告調の語りでもある。非現実が現実に迫っているという感覚が、しかし現実の何に迫っているのかはわからない不気味さをともなって読み手の肌をさわる。 10:10~「この語りに関しては〜ずっと地の文なんですよね(駒)」……話を盛り上げるのも、緊迫させるのも、起こる出来事ではなくて語りによるのだなあと感じる この語り手は物事を均す。そこでは自分も他人も町も感情もおなじレイヤーにいる。幻想小説、というと浮いてしまう身体感覚を語りが抑え込む。 18:55~「語るべきものがないんですよね。語るべきもののなさを語っているともいえる(駒)」「それって不思議なのよね。語るべきもの、というか語るべきことっていうのがないねんけれども、とはいえその町は存在している(鵜)」……このあたりへのこだわりは問題意識を自分に引き付けすぎているきらいはあるけれど、それはそうとして語ること・語られることのうちにある必然として、なにかを語るときかならず現れる穴 語るときかならず意識できない穴を、その意識できなさをそのままあらわす作品だった。それは肯定すべきものでも否定すべきものでもない。べき、といった人間の課す役作りからはとおくはなれてただひたすらに存在しているだけだという、そういう自然がある。 23:29~「なんかなぁ…インディーゲームっぽさあんねんな(鵜)」……これは余談だけど、ゲーム、とりわけインディーゲームはクリエイターのアイデアとコンセプトを突き詰めたものがそのまま体験になっている作品がおおくて、その体験はプレイしていると語り手のような存在感をはなつ。大雑把にメジャータイトルのゲームがなるべくプレイヤーに語り手の存在を意識されないよう巧妙に誂えられたエンタメ小説だとするなら、インディーゲームは変わった語りによって限界まで駆動し、破綻しかかるまえに完結してしまう短編小説(これはほんとうに大雑把に)。あと小説を読むときに感じる「ゲームっぽさ」のなかにはあるプログラムされた世界全体からなるべくおおくの情報を拾う一人称としてのプレイヤーの気分がある。 29:38~「この歴史のない町、と突然の穴が、こんだけ書いといて実は歴史をがっつり含んでいる(鵜)」……このあたりの話は鵜飼さんに言われた瞬間いろいろ考えてしまって反応がにぶったのだけど、そのあともいろいろ考えてひとつ思いついたことがある。あるけれどやっぱりそれは、そのまま書いて書評するとこの本の書評ではなくなるので以下のように留めた。読書メーターに書いたことを転載しておく。 «街を出るところまでを話に組み込んだのは、この小説自体がこの男の書く消えてしまった架空の街だ、という読みを外すためかもしれないと後になってから思う。この小説で唯一リアリティから逸脱した穴が、唯一フィクションでない存在をしている 存在をさせる切実として。» 44:17~「一番最初の冒頭がまずかっこいいねんな(鵜)」……«町の全貌をつかむには、そこで何年も過ごすしかない。そうして初めて、町の境界で揺らめく光の壁を目にし、その境界の意味するものを知ることができる/見慣れた光景の一部の異様さに気づくには、その町で何年も過ごすしかない。そうして初めて、一日のある時間に、静かな通りの終端の、ごく限られた位置に立って、どこかほかの場所にいるふりをすることができる。古いガス工場のはずれに立って上方を見つめ、町の外の不確かな世界のひとつにほんの一瞬入りこんだ気になることができる。/ある種の町の中にいるとき、そこ以外の世界は消えている。ならばそこ以外の世界にとっても、ある種の町は消えたままになっていると考えなくては理屈に合わない。つまりそこは、想像上の場所か、ゴーストタウンか、すかすかの領域をなんとか埋めるために地図製作者が入念に配置したたんなる地図上の飾りだと思われている、ということだ。»

    48 min

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