長崎・山手アーカイブス

つくる邸

長崎の旧外国人居留地・山手エリアにまつわる、様々な人が残した証言を文献から採集しました。山手の歴史や風景を記録として残し、古写真や音でアーカイブしていく「山手アーカイブス」の証言の朗読プロジェクトです。

Episodes

  1. 09/18/2020

    「南山手のロシア人と音楽」(永吉美恵子)

    美しい南山手は、幕末から明治時代、昭和にかけて、避寒の為にやって来たロシア人がたくさん住んでいたそうです。クズネツゥオーバ夫人(1892~1933)は、ロシアのサンクト・ペテルスブルグの貴族の娘で、父親はロシア皇太子の家庭教師を勤めていたそうです。ペテルスブルグ音楽院を卒業。それを誇りに思い、かなり優秀で高名なピアニスト、そして指導者でした。ロシア革命後、上海へ、そして大正十一(1922)年、家族と一緒にロシア正教会の高井神父を頼って長崎に亡命。南山手二二番館のスツエルビーニ夫人宅に住み、アップライトピアノでレッスンをしていました。スツエルビーニ夫人が住んでいた洋館は、残念ながら数年前に取り壊され現在は集合住宅になっています。クズネツゥオーバ夫人に八歳の時から2年間、ピアノのレッスンに通ったという長い間活水でピアノ教師だったO女史のお話によりますと、教則本はバイエルやハノンを用い、娘さんがいて、お宅には通訳を兼ねた住み込みのスツエルビーニ夫人と思われるインド人の女性がいたそうです。ピアノのレッスンは厳しかったが、レッスンの後は必ずクッキーなど、お菓子とお茶が出たそうです。そしてレッスンには必ず親がついてくることも条件だったそうです。娘が亡くなり稲佐の悟慎寺にお墓参りに行く途中、溝に落ち転落、その後、破傷風を患い、数日後に亡くなられたそうです。葬儀は悟慎寺のロシア人墓地の礼拝堂で行われ、O女史は子供心に怖さがあったが、母親に連れられ葬儀に参列、長い列ができるほど多くの参列者で葬儀が行われ、今でも墓碑が残っていると話されました。  参考:浪の平歴史探訪の会「居留地の香り漂い、戦後の活況が街を覆っていた時代 浪の平地区の昭和35年代」

    2 min
  2. 09/18/2020

    「居留地走り書」(田栗奎作)

    石畳と言えばすぐ坂が連想されるが居留地時代の名残をとどめているのは、「ロシヤコンスイの坂」とよばれる海洋気象台の下手の坂であろう。坂に面してロシヤ領事館があったので、その名をつけられたこの坂は広く、まだ昔の面影を残している。真夏の頃、この広い坂には薄紅色の小粒の実をつけた榕樹(あこう)が深い影を落としていた。石畳特融の柔らかさと温かさをたたえて居留地情緒をのこしているのは、この坂の少し先に、狭いけれども、緑の中の石畳といった感じのどんどん坂である。とにかくこの一帯まで来ると、南山手の空気は一層沈んでくる。それはロシヤ帝政の崩壊で亡命してきた有名無名の白系露人がのこした悲哀のせいであろうか。ここにはぴったり憂愁という言葉があてはまる。美しい名前のオランダ坂は、東山手から石橋に下る坂をよばれているが、この坂の名前には、長崎の人が居留地時代よりずうっと昔の頃からなじんで来たオランダ人への郷愁があるようだ。東山手にはこのほかに、活水下の切通し坂がある。この坂は、明治十八年にきたピエール・ロテイが、十善寺のお菊さんとの愛の巣から、碇泊のトリオン・フアン号に行くのに、毎日この坂を下って行ったので、ロテイ坂の別名があるが、最近広くなって、もう以前の情緒はなくなった。南山手では大浦天主堂に上る坂を、下り松の坂、その先の急勾配の石坂は地獄坂と呼ばれている。とにかく廃止後の居留地は、外人も揚げて次第に寂れて行った。これは港の衰微を語っている。中には長崎を永住の地ときめていた人もあったと言う。だが、その後の時代の激しい流れがそれをこばんだ。 参考:長崎手帖21巻(1959)特集 居留地の今昔

    2 min
  3. 09/17/2020

    南山手旧居留地の人々 Ⅰ(小林勝)

    マリア園の裏手には、コンスイ坂に比べて狭いが、今も居留地時代そのままに石畳を敷き詰めた急坂があり、坂の両側には木造洋館が何棟か生活の場として息づいている。分単位で移動する観光団もここまでは足を伸ばさない。坂の下手の夾竹桃(きょうちくとう)、いちょう、タイサンボク、棗椰子(ナツメヤシ)などの木々に覆われたおよそ400坪の庭園の一隅に、亡命白系ロシア人、マダム・シェルビニナの南山手二十二番館はあった。クリスチナ・シェルビニナさんは明治11年12月に長崎市南山手で生まれた。クリスマスに生まれたのでクリスチナと名前が付けられたという。シェルビニナさんの父親リチャード・フォードは、メキシコ湾内の英植民地バーバダス島の出身で、ウラジオ艦隊の御用商人として長崎の南山手22番地に家を建てて住んでいた。母親は島原の出身で沢チワといった。シェルビニナさんは活水学院に学んだのち、父親の仕事の関係でウラジオに移りロシアの教育を受け、その後、白系ロシア人と結婚して国籍が英国からロシア籍に移った。夫はウラジオストック定期船の船長であった。ロシア革命の際に長崎に引き揚げて以来、父親の建てた南山手二十二番館をついの住み家としたのであった。 参考:長崎の洋館・その保存と活用を求めて一部発表(1989)

    2 min
  4. 09/17/2020

    「南山手再発見」(林田泰昌)

    私は、南山手が好きだ。とくに、大浦天主堂から海洋気象台にかけての道がよい。しき石の重たい白さも、木造洋館のくすんだ灰色も、あめ色の石垣も。長崎に住みついた頃。それは戦後まもないころだったが、私はよくここを歩いた。梅香崎の海岸通りから、一気に大浦天主堂への石坂を歩く。ちょうど私の歩幅ずつ、白い外国船を浮かべた港の紺碧(こんぺき)がせり上がってくるのも、高みから俯瞰すれば、混乱や窮乏や腐敗がそれと感じられない歪んだ街並がひろがってくるのも、当時の私にはいいようのないたのしみだった。天主堂の前まで、一気に昇りつづける。そのあとで急速に私の胸を襲うごく軽度の呼吸難も、こころよい感覚であった。当時の長崎の、どんなところにも、原爆のいたみがあった。屋根が歪み、梁がはずれ、激しい熱線のかげが廂(ひさし)にあった。そしてその家の暗がりの中には疲弊と虚無とが、つめこまれていた。生き残った人びとは、過去を失った死者のかげめいていた。大陸からひき揚げてきた私の内部の、長崎の美しいイメージは、生きかえらなかった。ただ、とり残された南山手の古びた洋館の窓々や、石坂に、私は私の長崎を発見したのだった。それは素朴な、私の第一次の南山手発見であった。 参考:長崎手帖21巻(1959)特集 居留地の今昔

    2 min
  5. 09/16/2020

    南山手旧居留地の人々Ⅲ(小林勝)

    "明日の夜は月下美人が咲きそうだから、といって俳人の中村扇女さんらとシェルビニナさんから招かれたこともあった。そんなときは、わざわざサモワールで湯を沸かして待っておられた。二階のベランダの古いテーブルには、いつものように新しいレースのクロスが掛けられ、ロシアパンやビスケットに苺、葡萄、茄子などのジャムが添えてあった。すべてシェルビニナさんの手編みであり手作りである。なかでも茄子の黒いジャムはご自慢のものであった。テーブルの中央には、ふちに紅色のぼかしのある硝子の器に葡萄が盛られていた。ヤシコフ、アラジェフさんらも集まって来て、ビスケットや冷えて露のしたたる葡萄をつまみ、銀のホルダーに受けたコップに、なみなみと注がれた熱い紅茶を楽しみながら、ベランダに置いた鉢植えの月下美人の開花を待ったのであった。 ヤシコフさんは角砂糖をかじりながら、ストレートの紅茶を飲んでいた。甘味がいつまでも残らずさっぱりするというのである。このとき以来私も砂糖抜きの紅茶党になった。月下美人が咲くときには、あたりの夜の空間にこの世のものとも思えぬ優雅な香りが漂いはじめる。しかし、その夜ついに月下美人は開かず、港の灯も一つ一つ消えて、白系ロシアの住人たちは名残を惜しみながらそれぞれの部屋へと戻っていった。たまさかの来客を交えて集い合うのが、二十二番館住人たちの唯一の慰めであったのであろう。参考:長崎の洋館・その保存と活用を求めて一部発表(1989)

    3 min
  6. 09/16/2020

    長崎の洋館 (小林勝)

    それにしても最近とくに、長崎の洋館から情緒が失われようとしている。それは木造洋館を例にとってみても、独特の遊びの空間が消えかかっているのだ。たとえば手摺のあるベランダが次々に部屋に改造されていく。南山手最後の白系ロシア婦人、シェルビニナさんがいつか嘆いたように、ベランダに立っても海は見えず、四角四面の固く冷たいコンクリートビルや工場、また電柱など、周囲の環境そのものが急激に変化しているのだから、もはや見晴らしの効かないベランダなど残しておくのも、住む人々にとっては無駄なことかも知れない。グラバー邸やリンガー邸が、長崎の洋館の代表であることに異論はないであろうが、グラバー邸をグラバー邸たらしめ、リンガー邸をリンガー邸たらしめる。そうさせるものが、大浦界隈に散在する洋館群である。一戸々々は微力でも、洋館群としての醸し出す独特の雰囲気、これが長崎の異国情緒を形成してきた大きな要因のひとつでもあろう。町の姿は目まぐるしく変化していく。そのような環境の中にあって、いつまでも長崎の洋館に美しい姿を、美しい雰囲気を強いるのは無理であろうが、しかしこれは、長崎の心のふるさととして、やはり残ってほしいものである。 参考:長崎新聞 昭和47年3月14日

    2 min
  7. 09/16/2020

    「浪の平往来Ⅱ」(藤丸伸子)

    "当時の生活ですが、学校に通う時、足元は草鞋(わらじ)、教科書も不足、藁半紙、食べる物も少なく、髪にはほとんどの児童に虱(しらみ)がわき、衛生面でも大変な時代でした。食糧難もさらに悪くなりましたが、昭和二五年頃からは生活も次第に良くなってきました。 南山手在住のロシア人のヤシコフさんの女の子4人と私達姉妹は仲良しで、遊びに行くこともありました。またパパは大きな犬と散歩。浪の平町五二番地のバス通り、我が家の前に立ち寄ることもありました。 家の前は露天市場のようで遠く柿泊から伝馬船で野菜を売りに来ていました。 春は金刀比羅神社の桜祭り。やがて梅雨入りすると、雨傘は紙製のため破れ傘となり、姉妹で一本の傘を取り合い大変。でも晴れ上がる頃には、藍色の紫陽花が美しく、ヤシコフの庭以外でも南山手一帯を彩っていました。常緑高木の大輪で白い泰山木の花の香りなども、忘れられない記憶の中にあります。 夏の海岸、浜辺にはボート漕ぎの大学生たちや、海水浴の子ども達の姿。カニ獲り、あさり貝獲りなど、自然の中で楽しく遊びながら、食糧難も乗り越えました。金刀比羅神社裏手の山では、食用になるようなセリ、ノビル採り。特にキク科の多年草(ヨモギ)は香気があり、若葉は草餅用、葉は「もぐさ」用になり、自然豊かな町でした。 今でも鍋冠山からの浪の平地区の眺望は、長崎で一番美しいと誇りに思っています。参考:浪の平歴史探訪の会「居留地の香り漂い、戦後の活況が街を覆っていた時代 浪の平地区の昭和35年代」

    3 min
  8. 09/15/2020

    居留地の音・断想(青木義勇/長大医学部細菌学教授)

    すこし山手に登れば三菱の音、夜半フト目覚めてもそれを聞く。音源は同じでも今のように大小高低種々ではなく、きめこまやかでピッチが揃い何となく郷愁をそそるものであった。夏は鍋冠山の蝉も呼応し一つの音の環境をなしていた。ゴールデンイーグルホテルのガタガタピアノが「ツペラリーは遠い」をがなり立てる。十二時過ぎても一時過ぎてもである。シーメンスホームでは時々トロンボーンが鳴っていた。ジャパンホテルから本通りに出る角のあたりチャンポン屋があって、夜など胡弓(こきゅう)の音がきかれた。南山手のジョルダン邸では老婦人を中心に日を定め長崎フィルハモニ―の練習が行われていた。内外男女合わせて三十人位、当時恐らく九州に誇る存在であったであろう。邦人の中心は伊藤辰一郎氏、今なほ矍鑠(かくしゃく)。小生は第二ヴァイオリンの末席兼ねて打楽器。当時のベースや楽譜は今の長崎交響楽団が継承している。東山学院のラッパも耳に残っている。特に消燈ラッパは印象深い。大浦側はサンパンが自由に通れたようで、あとでカイダホテルになった家にも住んだことがある私には櫓(ろ)の音も印象に残っている。もう一つのこのあたりを夜な夜な、ノボセバ ムシクレバ ヨーシマストノ ハノイタミハアリマセンカ、が通ったことを、妙によく記憶している。この電報の様な一節、知らぬ方は何が何やら分からぬと思うがわれわれ年配の長崎の住人には全く説明を要しないと思う。みすぼらしい老夫婦、ノボセバを云うのは盲目のご主人で風呂敷包みを持ったおかみさんが手を引いている。出雲町か或いは浪の平に住んでいたのではないだろうか。参考:長崎手帖21巻(1959)特集 居留地の今昔

    3 min
  9. 山の五番(田栗奎作)

    09/15/2020

    山の五番(田栗奎作)

    山の五番は、浪の平の金比羅神社の裏の山の中に、一見ポツンと建っている。屋根もペンキも古さびて、深い沈黙と憂愁を漂わせている大きな木造洋館である。港からはよく見えるが、陸からはそろばんドックの国分町側からしか見えない。琴平町の人はこの洋館を「五番」とか、「山の五番」とか言っている。それに因んで背後の山は、五番の山と呼ばれているそうである。十数年前までは「山の修道院」とも呼ばれて、男禁制の所であったとも言う。山の五番がいつ頃から山の修道院になったのかもはっきりしないが、こんどの戦争中には外人修道女は軟禁され、ほかの日本人修道女達(長崎では童貞さんという)は天涯孤独の四人の少女をかかえて、ここで過ごしたというエピソードも秘められている。きくところによると、明治時代は小菅の方から山の五番の玄関まで、人力車がのぼって来たそうである。今はその道の跡も分からぬ位に、草木が深い谷間を埋めている。道はもう消えているかも知れない。当時を語るのは、玄関口の草ぼうぼうと繁る中に、十数段の石段があるばかりである。今ではときたま、東琴平の墓地にそった山道を、黒衣の修道女が籠をかかえて畑の老農夫に静かな挨拶を送りながら通って行く。留守番だけがいる山の五番に野茶でもとりに行くのであろう。細かい石ころの道が、山の五番に通じるただ一筋の道となっている。参考:長崎手帖38巻(1965)特集 木造洋館

    3 min

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長崎の旧外国人居留地・山手エリアにまつわる、様々な人が残した証言を文献から採集しました。山手の歴史や風景を記録として残し、古写真や音でアーカイブしていく「山手アーカイブス」の証言の朗読プロジェクトです。