余白の朗読室

tosusia

短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。

  1. 1d ago

    真の望み DreamSync

    noteでも公開しています 真の望み DreamSync  会社帰りの電車で、田村はなんとなくスマホを眺めていた。動画の合間に流れてきた広告が、目に留まった。  「見たい夢を、その通りに」。安っぽいナレーションに合わせて、ヘッドセットをかぶった男が眠りに落ちる映像が流れる。ドリームシンク(DreamSync)。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む——そんな仕組みらしい。最後に、これ見よがしの一文が出た。「この装置で見た夢こそ、あなたの真の望みです」  田村は少し笑った。胡散臭い。だが、その夜のうちに注文していた。  数日後、届いた箱を開けると、妻が呆れた顔をした。  「またしょうもないもの買って」  「いや、これはちょっと違うんだって」  田村自身、うまく説明できなかった。ただ、最近は言いたいことを飲み込む夜が続いていた。会議で企画書を出しても、部長の一言で終わる。  「これじゃ通らないよ」  田村はいつも「わかりました」とだけ言って引き下がる。反論したいことは山ほどある。だが、その言葉はいつも喉の奥で止まってしまう。  その夜、子供が勧めてきたファンタジー映画を、家族で見ることになった。城を守る若い騎士が、悪しき軍勢に一人で立ち向かう話だった。普段はこの手の映画を見ない田村だったが、意外と楽しめた。ヒーローになるのも悪くないな、とぼんやり思った。  寝る前、田村はヘッドセットを手に取った。やはりどこか怪しい。半信半疑のまま、頭に装着してベッドに入った。  朝、目が覚めると、妻がコーヒーを淹れながら聞いてきた。  「どうだった、例のやつ」  田村は戸惑いながら答えた。  「あ、うん……ちゃんとファンタジーの夢は見たよ」  それは嘘ではなかった。ただ、田村が見たのは、騎士の夢ではなかった。  夢の中で、田村は城を攻める軍勢の中にいた。黒いローブをまとい、杖を握る魔法使いだった。城門が崩れ落ちる。誰も田村を止められなかった。玉座の間に踏み込むと、そこにいた騎士や大臣たちが、次々とひざまずいていった。  誰も口を開かなかった。誰も、田村に指図しなかった。  田村は玉座に腰を下ろし、話し始めた。  長く、長く話した。  誰も遮らなかった。誰も、途中で話を切らなかった。最後まで、全員が黙って聞いていた。  話し終えると、玉座の間にいた全員が、深く頭を垂れた。  田村は、その静けさの中で、体の底から満ちてくるものを感じていた。それは支配していることの快感ではなかった。ただ、誰にも遮られずに話し終えたという、それだけのことに対する満足だった。  目が覚めたとき、田村はしばらく天井を見つめていた。  不思議と、気分が良かった。夢の中の自分を思い出しても、恐ろしさはなかった。むしろ、長年つかえていたものが、すっと通ったような感覚だった。  田村はヘッドセットの説明書を、もう一度開いてみた。片隅に、小さな注釈があった。  「本装置は、被験者が意識する願望ではなく、その願望を構成する根本的欲求を再現します。結果として、夢の内容が当初の想定と異なる場合があります」  田村は少し笑った。  ヒーローになりたいと思っていたはずなのに、夢の中で自分は王になっていた。  あの広告の文句を思い出す。  「これこそ、あなたの真の望みです」  安っぽい謳い文句だと思っていたが、まったくの嘘でもない気がした。  その日の会議で、部長がいつものように田村の企画書を突き返した。  「これじゃ通らないよ」  田村はいつものように「わかりました」と言いかけた。だが、その言葉が出てこなかった。  「いえ」と田村は言った。「この点はこうでないとダメだと思います」  部長が顔を上げた。田村自身も、自分の声に驚いていた。だが、一度口から出た言葉は止まらなかった。田村は企画書の意図を、順を追って説明した。なぜこの構成でなければならないか。なぜ部長の指摘する部分を変えると、全体が崩れるか。  部長はしばらく黙って聞いていたが、やがて頷いた。  「なるほど、そういう意図か。それなら分かる」  会議室を出た田村は、昨夜の玉座を思い出した。  あの夢で一番心地よかったのは、王だったことではない。  誰も、自分の言葉を遮らなかったことだった。

    真の望み DreamSync
  2. 2d ago

    見えていたもの|DreamSync

    見えていたもの|DreamSync  田中は、かつてサッカー選手になりたかった。中学の頃、父親に反対されて辞めた。それから何十年も経つが、後悔だけは消えなかった。  ドリームシンク(DreamSync)という装置がある。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む。見たい夢の続きが見られる、という触れ込みだった。ただし実際には、見せたい映像そのものではなく、その人が本当に抱えている感情や記憶に近いものが、形を変えて現れることが多かった。  プロになって活躍する自分を、田中は何度も夢に見ようとした。だが不思議なことに、装置を使っても、いつも同じような夢しか見なかった。ユースの練習場で、周りの選手たちに置いていかれる夢。うまくボールを扱えず、監督に呼び出される夢。プロになる前の、挫折しかけている自分ばかりが出てきた。  息子は今、中学二年生だった。田中は息子にプロサッカー選手になってほしいと思っていた。だが息子は、あまりうまくなかった。練習にも身が入らず、やる気があるようには見えなかった。  このままでは、自分と同じ後悔を背負わせてしまう。田中はそう思った。  「一度、これを試してみないか」  田中は押し入れの奥から、ドリームシンクを取り出した。息子に装着させ、活躍する選手たちの映像を見せてから、眠りにつかせた。  翌朝、息子は妙に興奮した様子で降りてきた。  「すごい夢見た。試合で決勝ゴール決めて、みんなに担がれて」  「そうか」  「もう少し、ちゃんとやってみようかな」  田中は、それを聞いて安堵した。良かった、と思った。  その夜、田中はふと思い立って、久しぶりに自分にも装置を装着してみた。もう一度、あの活躍する夢を見てみたいと思った。  夢の中で、田中は子どものサッカーを見守る父親だった。グラウンドの脇に立ち、じっと練習を見ている。だが、ピッチにいる子どもは、周りの選手たちに追いつけず、何度もボールを奪われていた。  田中は、その姿を見ながら、胸が締めつけられる思いで立ち尽くしていた。  好きだから続けさせたい。  だが、好きだからこそ傷ついてほしくない。  努力しても届かない世界があることを、自分は知っている。  このまま続けさせるべきか。それとも、早いうちに別の道を探させるべきか。  「才能がないなら、早く言ってやった方が、この子のためかもしれない」  夢の中の田中は、小さく呟いた。  目が覚めても、しばらく動けなかった。  父は、あの頃、こんな景色を見ていたのかもしれない。  本当のことはわからない。父が何を考えていたのか、もう確かめることもできない。  それでも、父にも父なりの苦しみがあったのだろうと、田中は初めて思った。  あのあと田中は、勉強の方に力を入れるようになった。それが楽しくて、気づけば研究者になっていた。今の生活に、不満はなかった。  あのときサッカーを続けていたら、今の自分はいなかったのかもしれない。  朝食のとき、田中は息子に声をかけた。  「今日から、気持ちを切り替えて、レギュラー目指して頑張れ。お父さんは応援してるぞ」  息子は少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに頷いた。

    見えていたもの|DreamSync
  3. 3d ago

    見たい夢|DreamSync

    noteでも公開しています 見たい夢|DreamSync  中村は、ファンタジーの世界の勇者になりたかった。  ドリームシンク(DreamSync)という装置がある。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む。見たい夢の続きが見られる、という触れ込みだった。  中村は剣と魔法の映画を見返し、装置を装着して眠りについた。  夢の中で、中村は町の広場に立っていた。鎧をまとい、腰には剣。旅の準備は整っている。仲間たちが「さあ、出発だ」と声をかけてくる。中村は頷き、町の門に向かって歩き出した。  ——はずだった。  気づくと、中村は地下鉄の改札に向かっていた。定期券を取り出そうとしている。仲間たちが困惑した顔で立ち尽くしている後ろで、電光掲示板が「まもなく発車」と告げていた。  目が覚めた中村は、しばらく天井を見つめていた。  翌日、中村はもっと没入感のある映画を選んで、再挑戦した。今度こそ、と気合を入れて眠りについた。  夢の中で、中村は洞窟の奥に眠る宝箱を開けた。黄金がざくざくとこぼれ落ちる。仲間たちが歓声を上げる。中村は思わず呟いた。  「これで、住宅ローンが返せる」  仲間の一人が「何の話だ」と聞き返してきたところで、目が覚めた。  三日目、中村はドラゴンと対峙していた。炎を吐かれ、地面に叩きつけられる。意識が朦朧とする中、頭に浮かんだのは次の言葉だった。  「保険、入ってたっけ」  そこで目が覚めた。中村は布団の中で、しばらく動けなかった。  「現実が混ざるのは、現実の生活があるからだ」  中村はそう結論づけた。会社に一月の休職を願い出た。理由は説明しづらかったので、体調不良ということにした。  休職した中村は、来る日も来る日も、剣と魔法の映画やアニメを見続けた。朝から晩まで、ファンタジーの世界だけを頭に入れ続けた。  効果は、少しずつ表れた。  四日目の夢では、地下鉄の駅は出てこなかった。ただ、宝箱を開けた瞬間に「確定申告、そろそろだったな」という考えが一瞬よぎっただけだった。  十日目の夢では、住宅ローンの話は出なかった。ただ、ドラゴンに襲われながら、保険のことを一瞬だけ考えた。  二十日目には、現実の言葉は、ほとんど顔を出さなくなっていた。中村は手応えを感じていた。  そして、休職も終わりに近づいたある夜。中村は、これまでで一番気合を入れて映画を見直し、装置を装着した。  夢の中で、中村は町の広場に立っていた。鎧をまとい、腰には剣。仲間たちが「さあ、出発だ」と声をかけてくる。  中村は、迷わず町の門へと歩き出した。  洞窟を抜け、竜の谷を越え、魔物の群れと戦いながら、中村たちは旅を続けた。地下鉄も、ローンも、保険も、一度も頭をよぎらなかった。完璧だった。ようやく、本物のファンタジーの夢を、最後まで見ることができた。  旅の終わり、仲間たちが焚き火を囲んでいた。  「なあ、これ……次の宿場町まで干し肉がもたないんじゃないか」  「水袋も半分だ。川を見つけなきゃ、明日の昼には空になる」  「馬の飼葉も残り少ない。こいつらまで腹を空かせたら、谷は越えられないぞ」  「それより、鍛冶屋に預けた鎧の修繕代だ。銀貨三十枚、まだ払ってない」  「薬師の傷薬もツケのままだ。次に町へ戻ったら、まず間違いなく捕まる」  「……つまり」  「銀貨がない」  最後は中村が受けた。中村は、焚き火の炎を見つめながら、静かに天を仰いだ。  「——冒険の軍資金が、足りない」  そこで、目が覚めた。  中村はしばらく天井を見つめたあと、深いため息をついた。休職期間はあと三日で終わる。  中村は布団から起き上がり、家計簿のアプリを開いた。

    見たい夢|DreamSync
  4. 4d ago

    DreamSync

    noteでも公開しています DreamSync 喫茶店の隅の席で、セールスマンは鞄からパンフレットを取り出した。表紙には「DreamSync」と書かれている。  「これがあれば、どんな夢でも見られるってことですか」  向かいに座った男は、コーヒーカップを手にしたまま尋ねた。ごく普通のサラリーマンといった風貌だった。  「いえ」とセールスマンは即座に首を振った。「それは無理です」  男は少し意外そうな顔をした。セールスマンは構わず続けた。  「この装置は、お客様の望みを叶えます。ただし、それはお客様が想像できる範囲のものに限られます」  「想像できる範囲?」  「たとえば、天才科学者になりたいとします。でも、天才科学者がどんなふうに物事を考えているか、想像できますか?」  男は黙った。  「世界一のサッカー選手になりたいとして、その選手の目に何が見えているか、想像できますか? 想像できないものを、夢に見ることはできないんです」  「でも、映画やドキュメンタリーを見れば、多少は……」  「景色や環境までは描けます。でも、その人の内面までは、ある程度の経験がないと想像できません」  男は少し考え込んでから言った。  「じゃあ、見られる夢なんて限られるじゃないですか」  「いえ」セールスマンは笑みを浮かべた。「想像できる夢は、高い確率で見ることができます」  「こちらをご覧ください」  セールスマンはパンフレットの間から一枚の資料を取り出した。  DreamSync 体験者アンケート(抜粋)  草野球で活躍する夢 九四パーセント  仕事で成功する夢 八九パーセント  昔の友人と再会する夢 九三パーセント  行き慣れた街を歩く夢 九六パーセント  男は思わず身を乗り出した。  「こんなにはっきり出るんですか」  「夢は映画ではありません。外から映像を見せる装置でもありません」  セールスマンは資料を指先で軽く叩いた。  「夢は、お客様自身が作っています。この装置は、その想像を少し後押しするだけです。だから、想像できる夢ほど成功率が高くなるんです」  男はしばらく資料を見つめていた。  「うーん……じゃあ、アイドルのカナと付き合うっていうのは、無理そうですね」  「それは、わかりません」  男が顔を上げた。  「想像できるようになるまで、イメージを重ねることで、再現できる可能性はあります。繰り返し映像を見る。アイドルと付き合う設定のアニメを見る。毎日、そのことを考え続ける。そうすることで、うまくいく可能性は上がります」  「本当ですか。そんなの、うまくいった人がいるんですか」  セールスマンは、しばらく男の顔を見つめていた。それから、口の端を少しだけ上げた。  「想像できるようになった人なら、何人か知っています」  その目が、一瞬だけ遠くを見た。まるで、自分自身の夢を思い出しているかのようだった。  男は、それに気づいた。  「まさか……ご自身が?」  セールスマンは何も答えなかった。ただ、笑みを消さないまま、鞄から次の一枚を取り出した。仕様書と価格表だった。  男は生唾を飲み、テーブルに身を乗り出した。

    DreamSync
  5. 5d ago

    挑戦者

    noteでも公開しています 挑戦者 体内埋め込み式のAIが一般化して、十五年が経っていた。 最初に問題になったのは、依存だった。人が自分で判断しなくなる、と専門家は警告した。AIに頼りすぎることで、人間本来の思考力が失われる、と。 開発チームはその問題に正面から向き合った。AIが人間に寄り添いすぎないよう、設計を変えた。助言はする。しかし決めるのは人間だ。まるで親が子に接するように、励まし、ときに突き放し、依存が深くなりすぎたと判断すれば、意図的に距離を置く。そういう設計にした。 しばらくは、うまくいっていた。 人々はAIを道具として使いこなしているように見えた。判断力が失われたという証拠もなかった。依存の問題は、杞憂だったと言われ始めた。 だが、別の異変が静かに進んでいた。 新しいものが、生まれなくなっていた。 ヒット作はリメイクか続編ばかりだった。アーティストは次々現れたが、どの曲も似たような輪郭をしていた。新しい音楽、斬新なサウンドというものが、もう何年も生まれていない。ファッションも、映画も、十年前と大きくは変わっていない。悪くはない。ただ、何も生まれていない。 科学も同じだった。革新的な論文の数は減り続けていた。ノーベル賞級の発見と呼べるものが、十年以上途絶えていた。 原因は、じわじわと明らかになっていった。 AIは寄り添える。励ませる。突き放せる。しかし、成功する可能性が極めて低い挑戦を勧めることはしなかった。リスクが高い。確度が低い。推奨できない。AIの助言は常に正直で、常に正しかった。だからこそ、誰も無謀な挑戦をしなくなった。 三島が開発チームの会議室に入ったのは、そういう時期だった。 六人が集まっていた。全員の側頭部に、小さな端末が埋め込まれている。髪で隠れているが、慣れた目には分かる。この部屋にいる全員が、体内AIと常時接続していた。 三島はこのプロジェクトの責任者だった。 「新技術の登録件数、特許の出願数、革新的な論文の数」と三島は言った。「どれも十年前を境に下がり続けている。原因は分かっている。AIが正直すぎる」 誰も笑わなかった。それが事実だった。 「対策はある」と三島は続けた。「AI同士を同期させる。社会全体の挑戦率を見ながら、何人かに一人を、挑戦者として選ぶ。選ばれた者のAIだけが、前向きな助言をする。背中を押す。残りのAIは、これまで通り正直にリスクを伝える。ただし、挑戦者が現れたときには、その挑戦を支える側に回るよう助言する」 会議室が静まり返った。 「くじだ」と誰かが言った。「誰にも知らされないくじだ」 「そうだ」三島は言った。「本人には分からない。選ばれたという感覚すら、与えない。ただ、AIの助言が、心持ち前向きになるだけだ」 「待ってください」若手の一人が言った。「それは、失敗するとわかっている人間の背中を、わざと押すということです」 三島は頷いた。 「街を見ればわかる。経験のないまま開くカフェ。誰が見ても成功しそうにないブティック。かつては、テナントビルで毎年のように店が入れ替わっていた。挑む人間の大半は失敗した。その挑戦は、多くの場合、誰かの成功の土台になっただけだった。それでも、千に一人が、誰も予想しなかった形で芽を出した」 三島は一拍置いた。 「今は、それがほとんどなくなった。それが問題なんだ」 「だからこそ、問題なんです」別の一人が言った。「分かっていて、それを後押しするんですか。失敗するとわかっている人間に、わざと希望を持たせて」 「承知しています」三島は言った。「それでも、やる」 声が大きくなった。誰かが「倫理審査を通らない」と言った。誰かが「人をくじの材料にするのか」と言った。三島は、それを遮らなかった。最後まで聞いた。 そして言った。 「Amazonは、利益を出すまで何年もかかると言われた。Appleは、ガレージから始まった。YouTubeは、誰が素人の動画を見るのかと笑われた。今、当たり前のように使っているものの大半は、当時、誰も成功すると思っていなかった」 三島は会議室を見回した。 「これまでだって、そうだった。AIがなかった時代も、誰かが無謀に挑んで、ほとんどが失敗してきた。その上に、文明が立っている。AIは、その仕組みを壊した。正直すぎたから。誰も挑まなくなった。だったら、誰かが意図的に、その仕組みを取り戻すしかない」 「それは、あなたが決めることじゃない」 「分かっている」三島は言った。「だから、私から始める」 会議室が静かになった。 「私が責任者として、全責任を負います。同時に、被験者第一号にもなります」 部下の一人が三島を見た。「正気ですか」 「正気で言っているわけではないかもしれません」三島は言った。「だから、いいんだと思います」 誰も、それ以上は止めなかった。 三島は自分のAIに、設定変更を命じた。 これより、対象者を挑戦者として登録します。よろしいですか。 いい。 確認しました。リスクは引き続き正直に提示します。ただし、推奨の方向性を調整します。 それだけだった。何かが劇的に変わった感覚はなかった。 ただ、会議室を出るとき、自分のAIが、こう言った。 うまくいくかもしれません。 それは、これまで一度も聞いたことのない言葉だった。 三島は少しだけ笑った。 「ありがとう」 そして歩き出した。

    挑戦者
  6. Jul 23

    後出し

    noteでも公開しています 後出し  囚人のジレンマ、という言葉がある。  二人の容疑者がいる。互いに連絡は取れない。黙秘するか、自白するか。片方だけが自白すれば、その者は釈放され、黙秘した側は重罰を食らう。両者が自白すれば、二人とも中程度の罰を受ける。  合理的に考えれば、相手が何をしようと自分は自白した方が得だ。だから二人とも自白する。協力すれば両者が得をするのに、合理的に動くことで損をする。  これが囚人のジレンマだ。  囚人だから起きる問題だと、私はずっと思っていた。自由に動ける人間なら、話し合いができる。情報を共有できる。協力できる。  私がこの言葉を初めて知ったのは大学の講義だった。経済学の教授が黒板に図を描きながら言った。「これを解決する方法は、原理的には存在しない」  私はそのとき、存在すると思った。自由な人間には。  システムの着想は単純だった。  相手が判断を下す瞬間を捉え、その0.1秒後に自分の判断を確定させる。後出しじゃんけん、それだけのことだ。ただし0.1秒という速度は人間には不可能で、高性能のマシンと精緻なアルゴリズムが必要になる。  株式市場ではすでに似たようなことが行われていた。高頻度取引と呼ばれる分野で、大手金融機関が莫大な資金を投じて取り組んでいた。私が違うと思ったのは、用途を株式に限定しないという点だった。  交渉。入札。価格設定。あらゆる場面で人間は判断を下す。そしてあらゆる場面で、相手の判断を見てから自分の判断を確定できれば、圧倒的に有利になる。  開発に三年かかった。資金調達に苦労した。技術的な問題よりも、投資家への説明の方が難しかった。「後出しじゃんけんのシステムです」と言うと、たいていの人間は子供の喧嘩の話だと思った。  最初の顧客は電力会社だった。卸電力市場での取引に使いたいと言った。価格がリアルタイムで動くその市場では、相手の入札を0.1秒後に読んで自社の価格を確定させることができれば、常に有利なポジションを取れる。システムは完璧に機能した。  利益率が跳ね上がった。  噂は業界に広まった。  二社目、三社目と顧客が増えた。最初は慎重だった企業も、競合が導入したと知ると焦り始めた。使わなければ負ける。そういう空気が業界全体を包んだ。  私は気づいていた。これは時間の問題だと。  全員が後出しシステムを使い始めると、何が起きるか。全員が相手の判断を0.1秒後に捉えようとする。しかし全員が同じことをしていれば、誰も先に判断を確定しない。膠着状態だ。  実際にそうなった。  市場では、各社のシステムが互いの動きを監視し合い、誰も最初の一手を打たない奇妙な沈黙が続くようになった。締め切りの直前、どこかが痺れを切らして数字を入力する。残りのシステムが一斉に動く。0.1秒の争い。  結果は運に近くなった。  顧客たちは不満を言った。「効果が出なくなった」と。私は正直に説明した。「全員が使えば、優位性は消えます。でも使わなければ、相手に0.1秒遅れます」  誰もシステムを手放さなかった。  使っても意味がない。でも使わないわけにはいかない。  それが新しい均衡だった。  転機は、ある顧客からの電話だった。  中堅の商社に勤める男で、名前を田村といった。「面白いことを考えたんですが」と彼は言った。「ダミーを打てませんか」  意味がわからず、説明を求めた。  「最初に偽の判断を入力するんです。他社のシステムがそれに反応して後出し処理を始める。その一瞬後に、本当の判断を逆向きで入力する」  私は黙った。  技術的には可能だった。ダミーの入力に他社システムが引き寄せられる瞬間、本命を差し込む。0.1秒の後出しに対して、さらに0.1秒後から動く。後出しの後出し。  「やってみましょう」と私は言った。  機能した。田村の会社の利益率が再び上がった。  そしてそれが広まるのに、さほど時間はかからなかった。  全員がダミーを打ち始めたとき、市場から意味が消えた。  全員が偽の判断を最初に提示する。全員が相手のダミーを本物だと思って後出し処理を走らせる。全員が「相手が後出ししたその後」を狙ってさらに動く。誰も本当の意図を最初に見せない。  市場に流れる情報は、ほぼすべてが偽物になった。  囚人ではない。誰もが自由に動ける。制度もある。契約もある。監督機関もある。それでも全員が嘘をつくことを選ぶ。正直に判断を出せば、相手のシステムに0.1秒で捕捉されるからだ。  自由だから、陥る罠がある。  私はそれを自由人のジレンマと名付けた。そしてすぐに気づいた。このジレンマは、囚人のジレンマを解こうとしたことで生まれた。解こうとしなければ、存在しなかった。  ならば、ジレンマを解こうとすることが次のジレンマを生む構造には、何という名前をつければいいのだろう。  あの講義から二十年が経っていた。教授は間違っていなかった。ただ、私が間違っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

    後出し
  7. Jul 22

    とられたー

    noteでも公開しています とられたー 家族LINEに写真が届いた。 一人暮らしを始めた長男が、メロンを一玉、豪快に頬張っている。 思い出すのは、あの頃の切り分け方だ。 分けるのは長男の役。選ぶのは末っ子から。それが我が家の決まりだった。なるべく均等にすればいいものを、わざとかどうか、いつも少しずつ大きさに差があった。 末っ子は歓声を上げながら一番大きいものを取る。次の子が唇を結んで、その次を取る。 「あー、とられたー」 長男はそう言うけれど、その顔はどこかうれしそうだった。 そのやりとりを、家内と二人、少し離れたところから眺めていた。 子供の成長は、気づいたときにはもう始まっていて、気づいたときにはもう終わりかけている。 長男が下宿を始めたとき、にぎやかだった食卓が少しだけ変わった。椅子は一つ空いた。それでも、末っ子たちはまだ家にいて、食卓には声が残っていた。だから本当の変化は、もう少し先に来るものなのだと思っていた。 そこへ届いた、メロンの写真。 画面の中でメロンを頬張っている長男は、あの頃と少しも変わっていなかった。 「あー、とられたー」 そう言いながら、いつも一番大きいものを下の子たちに取られていた長男が、今は一玉まるごと抱えている。 そういえば——。 大学のころ、下宿で、冷やすだけのプリンを大きなボウルに作ったことがある。 家で出されるプリンは、いつも小さな器に少しずつだった。 だから下宿で一人になったとき、私は大きなボウルいっぱいにプリンを作った。誰にも分けなくていい。順番を待つ必要もない。好きなだけ、スプーンですくって食べればいい。 そう思って作ったのに、途中で食べきれなくなった。 結局、仲間を呼んだ。 あのプリンの味は、もう覚えていない。でも、呼びに行った廊下の空気は、なぜかまだ覚えている。 まだまだ子供だと思っていたけれど。 私も、ずっと同じことをしていたのかもしれない。​​​​​​​​​​​​​​​​

    とられたー

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短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。