翔べ!ほっとエイジ〜人生100年時代の歩き方トーク

第37回は、社会学者の上野千鶴子さんに聞く(上)介護保険制度の危機を乗り越え「ケア社会」をつくる

 今回のゲストは、社会学者の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さん.。

 人生100年時代を迎えた日本社会において、介護保険制度の行方は全ての国民にとって切実な問題となっている。この制度の根幹を揺るがす改悪案に対し、市民レベルから声を上げたのが、社会学者の上野千鶴子さんと評論家の樋口恵子さん。2人が手を結ぶきっかけは、立ち話だった。2014年の介護保険改定で危険な改悪案が浮上した際、ふたりは「このまま放置すれば取り返しのつかないことになる」という危機感を共有。上野さんが理事長を務めるウィメンズアクションネットワークと樋口さん率いる高齢社会をよくする女性の会が核となり、介護関係者、利用者、家族を巻き込んだ介護保険改悪反対運動が始まった。

 2020年1月14日、衆議院第一議員会館で開催された「介護保険の後退を絶対に許さない!1・14院内集会」には約300人の関係者が集結した。この集会を皮切りに、介護保険改悪阻止の運動は全国に広がりを見せ、2023年には「ケア社会をつくる会」として正式にネットワーク化された。

 運動を進める過程で明らかになったのは、介護関係者間の横のつながりの希薄さだった。ケアマネジャー、リハビリ専門職、介護職員など、様々な専門職が分断されており、利用者の当事者団体も認知症の人と家族の会を除けば組織化が進んでいない現実があった。この状況を打破するため、職種を超えた緩やかな連携の構築が急務となった。

 ケア社会をつくる会は、2024年の参議院選挙に向けて主要政党へのアンケート調査を実施した。その結果、立憲民主党、社民党、共産党、れいわ新選組などが介護保険制度に言及し、特に立憲民主党は「幸せな在宅ひとり死への支援」という上野氏の提唱する概念まで政策に盛り込んでいた。

 しかし、これらの政党が選挙で得票を伸ばすことはできず、介護問題が有権者の投票行動に与える影響は限定的だった。一方で、国民民主党や参政党を支持する介護関係者もおり、介護現場の政治的志向の多様性も浮き彫りになった。

 上野さんは、ジェンダー問題が近年の選挙で投票行動に影響を与え始めているように、介護問題も継続的な取り組みによって政治的な争点として認知される可能性があると分析している。アメリカには会員数3600万人を誇る全米退職者連盟という強力な高齢者利益団体が存在し、党派を超えて政治的影響力を行使している。日本でも同様の当事者組織の必要性が求められている。

 記者会見や院内集会を重ねる中で、メディアの関心の低さも課題として浮上した。「読売新聞は一度も取材に来ず、産経新聞は最後に一度だけ参加した程度で、テレビ局の対応も消極的だった。記者の質問レベルからは、介護保険制度に対する理解不足も明らかになった」と上野さんは言う。

 2024年の介護報酬改定では、運動体が想定していなかった訪問介護報酬の大幅削減が実施された。この改定により、全国で訪問介護事業所の倒産、休業、廃業が相次ぎ、介護現場は深刻な危機に直面している。

 共産党系の「赤旗」の調査によると、全国の自治体で介護保険事業所が完全に消失した地域が100以上、事業所が1つしか残っていない地域が300程度に上るという衝撃的な実態が明らかになった。上野さんらはこの状況を「保険詐欺」と表現し、保険料を徴収しながらサービスを提供できない制度の矛盾を厳しく批判している。

 現在の要介護高齢者の多くは昭和時代を生きてきた世代であり、特に女性は家族のためにケアを提供する役割を担ってきた。この世代は要介護状態になると自らの存在意義を見失い、家族に迷惑をかけないよう遠慮がちになる傾向がある。

 しかし、戦後生まれの世代は権利意識が高く、自分のことは自分で決めたいという意識を持っている。また、独居高齢者の増加により、家族に依存しない生き方を選択する高齢者も増えている。年金制度の影響も大きく、厚生年金受給者の比率が高い世代は経済的自立度が高く、従来の高齢者像とは大きく異なる特徴を示している。

 国民年金制度の設計時には、自営業者は死ぬまで働き続けるという前提があり、年金は孫への小遣い程度の位置づけだった。しかし、現実には年金収入が唯一の収入源となる世帯が多数存在し、制度設計の根本的な誤りが露呈している。40年間保険料を納付しても受給額は最大7万円程度で、生活保護水準を下回るという矛盾が生じている。

 この問題の解決には、最低保障年金の導入や現行制度下での生活保護との差額支給の活用が考えられる。しかし、行政の周知不足やケアマネジャーの知識不足、受給に対するスティグマ(恥辱)などが障壁となっている。

 介護保険制度を持続可能なものにするためには、負担と給付のバランスを根本的に見直す必要がある。日本の社会保障制度は健康保険、国民年金、介護保険の「国民皆保険3点セット」で構成されており、介護保険だけを切り離して論じることはできない。

 介護保険や健康保険が利用者負担を求める前提として、高齢者に一定の購買力があることが想定されている。この購買力を保証するのが年金制度であり、年金制度の不備が介護保険制度の機能不全を招いている側面がある。  現在、日本の国民負担率は保険料と税負担を合わせて46%となっており、OECD諸国の中では中位に位置している。つまり、中負担中福祉の国家へと変化しているが、この負担をどう配分するかが課題となっている。

 介護保険料は制度開始時の3000円台から現在は6000円台へと倍増しており、高い自治体では9000円台に達している。保険料負担はほぼ上限に達しているとの見方が強く、今後は公費負担割合の引き上げが不可欠とされている。現在は保険料と公費が半々だが、国費負担を25%から35%に引き上げる案が複数の政党から提示されている。

 国政レベルでの制度改革が進まない中、自治体レベルでの独自の取り組みが注目されている。介護保険制度では自治体が保険事業者となっており、上乗せ・横出しサービスの提供が可能である。

 村上市の事例では、市長の政治的決断により訪問介護事業所への支援が実現した。この背景には、地域の介護事業者と市民のネットワークが市議会を動かし、市長に働きかけたプロセスがある。同様の動きは全国各地で見られ、市議会や区議会では介護保険改悪阻止を求める決議が相次いで採択されている。

 上野さんは「決議を出すなら予算も出すべき」と主張し、自治体の積極的な財政支援を求めている。介護保険給付費の積立金は多くの自治体で黒字となっており、現在のような非常時にこそ活用すべきだとの考えを示している。  こうした地方からの取り組みが全国に広がることで、国政への圧力となり、制度改革の推進力になることが期待されている。自治体と市民の連携による「地方から国を包囲する」戦略は、市民運動の新たな可能性を示している。

 介護保険制度は2025年で制度開始から25年を迎え、歴史的検証には十分な時間が経過している。制度創設時に理想主義に燃えて制度設計に関わった市民や官僚の多くは高齢化し、官僚は世代交代が進んでいるが、上野さんは、介護保険制度の抜本的な見直しの時期が来ていると指摘している。各政党の公約を見ると、制度見直しの方向性は二極化しており、現状維持・改善を目指すグループと、負担増・給付抑制を進めるグループに分かれている。

 制度創設時には「介護の社会化を進める1万人市民委員会」が労使を超えた世代横断的な運動を展開した。現在も同様の国民的議論の場が必要だが、メディアの劣化や政治不信により、十分な議論が行われていない現状がある。

 社会保障制度に対する国民の意識調査では、より良い社会保障のために現在以上の負担を受け入れる意思を示す国民が5割を超えている。しかし、政府への不信が負担受け入れの障壁となっており、政治不信の解消が制度改革の前提条件となっている。

 ケア社会をつくる会は、単なる反対運動を超えて、望ましい介護保険制度のあり方を提示する建設的な役割を担おうとしている。職種を超えた緩やかな連携、自治体レベルでの実践的取り