オーディオドラマ「五の線3」

210 第199話「沈黙を編む手」


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音楽堂の裏手――濁流がかすめた低地に、まだ泥の匂いが残っていた。
京子は、崩れた階段の縁に腰を下ろしていた。
脚には乾きかけた泥がつき、掌には黒いスマートフォンが握られている。画面は割れていたが、電源は入る。その端末は、相馬の遺品だった。
押収されていたその携帯が、自分のもとに戻ってきたのは、ほんの数十分前のことだ。

ーーー
背後に気配を感じた。
振り返らなくても、足音で誰かは分かった。

「……冷えるな。」

父の片倉肇だった。
二人の間に言葉はなかった。
しばらくして、京子がぽつりと口を開いた。

「……警察官だったんでしょ。周。」

片倉の目がわずかに動いたが、肯定も否定もなかった。

「バイトなんて、嘘だって……最初から分かってた。あの人は携帯を机に置かないし、時間にはやけに神経質だったし。」
「……。」
「お父さんと同じでさ。たぶん、公安とか、そういう類の仕事なんだろうなって。なんとなく、わかってたんだ。……でも、訊けなかった。訊いたところで、答えないだろうしね。」

その言葉に、片倉の頬がひくりと動いた。
京子は苦笑を浮かべた。

「だけど、まさか……。本当に死んじゃうなんて…。」

彼女の手はかすかに震えていた。

「なにもかも伏せたまま……。そんなのって、ある?」

片倉はゆっくりと、上着の内ポケットからビニールに入ったスマートフォンを取り出した。
それを静かに、娘の膝の上に置く。

「これはお前が持っとれ。」

京子は言葉もなくそれを受け取った。

「相馬の携帯には重要な情報がはいっとるはず。ほやけど全部流された。もう見つからんやろ。」

京子の肩がひとつ震えた。

「お父さん……。」

手のひらを見せて片倉は彼女の言葉を遮った。感情を削ぎ落としたその手は、どこか震えていた。
京子は唇をかみしめながら、スマートフォンの画面を撫でた。
泥で濁っていた瞳が、わずかに潤んだまま、遠くの空を見つめる。

「お父さん。あの人が命を賭けたこと……私、全部は知らない。でも、これから調べる。書くよ。彼のこと。彼が見たもの、全部。」
「……記者としてか?」

京子はうなずいた。
片倉はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに目を伏せ、風の音に身を預ける。
彼の頬を伝った一筋の水は、泥の筋ではなかった。

ーーー
階段の陰――
黒田は、京子と片倉親子の背中を遠くから見守っていた。

あのとき、黒田は声を上げられなかった。
相馬が仁川に撃たれる刹那の悲痛を、ただ記憶に焼きつけることしかできなかった。
今、その恋人とその父が向かい合っている。
言葉のない喪失。
誤魔化しのきかない現実。
黒田は自問した。

「俺はあの時、何を見たんだ……。」

京子は、もう知っているのだろうか。相馬を撃ったのが、あの仁川征爾だと。
もし知らないのだとすれば――
その「記録」は、彼女が辿り着くべき物語なのかもしれない。

自分はただの見届け人でいい。
それが彼の、記者としてのけじめだった。
彼は京子らに背を向け、
空を見上げた。



ーーー
テレビの画面には、茶色く濁った水の中を歩く自衛隊員たちが映し出されていた。

「第14普通科連隊の活躍が市民を救った」

テロップがそう踊り、画面はカットを切り替える。
女性自衛官が泥まみれの子どもを抱きかかえ、避難所に駆け込む。
その背中に、カメラのズームが寄る。
「被災地に寄り添う自衛隊」――局アナの声がかぶさる。
テレビもネットも、そればかりだった。

陸自提供の映像は、編集された英雄譚となって各局に流れた。
音楽堂での戦闘、鼓門前の銃撃、瓦礫の山の裏側――そこにいた特殊作戦群の姿は、どこにもない。
彼らの存在は、放送では“空白”として処理された。
公安特課についても「警察関係者の協力のもと」との一文だけが読み上げられる。
相馬の名も、椎名の名も、当然ながら一度も出てこない。

「今回の事態に対して、政府は迅速に対応しました。」

官房長官・櫻井は記者会見でそう言い切った。

「民間人への被害を最小限に抑えることができた。作戦は成功裏に終わったと評価しています。」

用意された原稿を読み上げるような口調だったが、記者席から反論の声は上がらなかった。
その後、ホワイトハウスからも声明が出された。

「日本の統治機構の成熟と連携に最大の敬意を表する」
We express our utmost respect for the maturity and coordination of Japan’s governance system.
米国報道官による読み上げだったが、テロップには“大統領の発言”と表示された。

首相会見の原稿、テレビ局の報道順、SNSのトレンド整理――
そのすべての裏で、ひとりの男が静かに動いていた。
内閣情報官、上杉靖は会見場には姿を見せず、報道には一切登場しない。
だが、首相が発した言葉の一字一句、テレビ局のテロップの色味、番組構成の順番に至るまで――すべては、彼が数時間前に差し替えた“最新版のファイル”に準じていた。

総理の演説台に置かれた原稿。
メインキャスターが読む一行目。
報道番組が流すVTRの開始時間とその長さ。
そのすべてが、上杉の掌にあった。

ネットでは、SNSの火消し部隊がすでに動いていた。

#自衛隊ありがとう、#外交勝利、#米国と共に――

それらのタグをトレンド上位に押し上げたアカウントのいくつかは、某省広報部の職員が個人名義で運用していたものだった。

「特殊作戦群」の名は、いかなる資料にも記されなかった。
映像資料も消された。

上杉の指先は、次の「演出プラン」へと滑っていた。
いまこの国に必要なのは、真実ではない。
「国民が安心する筋書き」だった。

ーーー

同じ頃――
政府専用機が羽田を離陸し、ツヴァイスタン人民共和国に向かっていた。
搭乗していたのは仲野特命担当大臣。同行には、内閣情報調査室の関、公安特課の松永。目的は、事態収束後の外交的整理と、拉致被害者の帰還交渉だった。

ツヴァイスタンは核保有国である。
もしプリマコフ中佐の特別軍事作戦が成功していれば、軍政派がその勢いで核の恫喝に踏み切る可能性すらあった。
それを事前に察知していた文民派の外交官エレナ・ペトロワと情報将校イワン・スミルノフは、作戦前から中国に根回しを進めていた。

「作戦が決行された場合、中国は黙認すべきではない」

かつての宗主国ロシアではなく、現在のパワーバランスの中で睨みを効かせるべき相手は中国だと彼らは見ていた。
結果、作戦は日本の地で失敗し、プリマコフは戦死。
軍政派は失策の責任を問われ、中国の圧力の下、核使用の選択肢を失った。
求心力を喪失した彼らに代わり、文民派が主導する「国民和解臨時政府」が発足の動きを見せていた。

仲野一行は、この臨時政府の首班アレクセイ・コズロフと極秘会談を行う。
記者団の同行はなく、会談の詳細は公にはされなかった。

ただ一つ、外務省が公開した一文のみが、ニュース原稿に載った。

「ツヴァイスタン国民和解派は、プリマコフによる軍事暴走を正式に断罪。拉致被害者全員の即時帰還を日本政府に約束した」

この一文が、事件の幕を引いた。
誰もがその言葉を信じたわけではない。
しかし、それを疑う余裕を、誰も持っていなかった。

ーーー
永田町――首相官邸。

地下の執務エリアには、夜遅くにも関わらず数人の関係者が残っていた。
会見を終えたばかりの櫻井官房長官は、背筋を正したまま、給湯室で一杯の白湯を口に含んでいた。
手にし