リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 11月9日

    私たちが嘆くべき本当の不幸(ヨハネの黙示録 18章)

    「不幸だ、不幸だ、大いなる都、 強大な都バビロン、 お前は、ひとときの間に裁かれた。」 (ヨハネの黙示録18章10節) 罪が積み重なって天まで届き、忍耐に忍耐を重ねた主の裁きが、ついにくだります(5節)。その様子を見ていた人びとが「不幸だ、不幸だ」と叫びます。彼らは「ひとときの間に裁かれた」と、主の圧倒的な力と裁きを認めます。しかし、主の裁きの御業を賛美しているわけではありません。むしろ罪に罪を重ねたバビロンが倒されたことを「不幸だ」と嘆きます。なぜ主の勝利を嘆くのでしょう。なぜなら彼らは、バビロンを通して大きな利益を得ていたからです。彼らを支える神のような存在が、裁きで失われたからです(11節)。 主の裁きの御業をその目で見てもなおバビロンに執着し、「不幸だ」と嘆く人びとを、私たちは笑えるでしょうか。わたしは笑えません。なぜなら、わたしも、いつか滅びる富や地位、人の評価を、永遠に続く神だと思い込み、失えば「不幸だ」と嘆く一人だったからです。 そのような者を、それでも主は愛し、憐れんでくださいました。そのような者が受けるべき裁きを、主イエスが十字架ですべて負い、的外れな生き方から救い出し、本物の喜びと自由を与えてくださいました(ガラ3、5章)。十字架と復活をとおして与えられる、はかりしれない恵みを拒否する。これ以上の不幸があるでしょうか。 【祈り】 主よ、きょうも、十字架と復活の恵みの中にわたしを置いてください。

  2. 22時間前

    いかに偽りの神々が暴れまわろうとも(ヨハネの黙示録 17章)

    「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。」 (ヨハネの黙示録17章14節) 偽りの神々が力を振るっています。遠い国の話ではありません。日本に生きる私たちの現実です。 赤い獣にまたがる女とは偽りの神々を指し示しています(3節)。偽りの神々は「聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれ」ようと、主イエスを信じる者に迫ってきます(6節)。人間の弱さを知り尽くした彼らは、物欲、同調圧力、承認欲求…、あらゆる方法で、巧みに、静かに、しかし確実に、私たちを主イエスから引き離し、支配しようとします。実際に血を流すのではないでしょう。しかし、人間の弱さを巧みに突く偽りの神々を前に、心が揺さぶられます。本物の神を脇に置き、偽りの神々の支配に従いそうになります。 その私たちを罪の支配から救いだすために、小羊イエスは十字架で自らの命を進んで差し出し、今も私たちに語り続けています。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」と。 今この時も、偽りの神々が暴れまわっています。しかし、十字架と復活の小羊イエスの勝利はすでに決しています。この勝利の中に、小羊イエスを信じる者もすでに生かされています。この勝利の小羊イエスをこそ礼拝し、小羊に従い生きること、それこそが私たちの命を支える道です。 【祈り】 主よ、偽りの神々に勝利してくださった主イエスに依り頼み、あなたを礼拝し歩む者としてください。

  3. 1日前

    悪に染まらぬ清さを保つ礼拝者(詩編 141編)

    わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。 悪を行う者らと共にあなたに逆らって 悪事を重ねることのありませんように。 (詩編141編4節) 前に置かれた140編は、外敵による攻撃からの守りを祈る詩編でした。それに対して本編には、この作者自身が自覚している自らの弱さへの警戒が含まれています。自分自身が罪を犯してしまうことがないようにと祈る詩編です。 おそらく彼は、罪深い者たちが力を持つ社会で生活していたのでしょう。そのような社会で生きるために、世の良識ある人たちは賢く振る舞います。自分が置かれている立場をよくわきまえ、悪い言葉に対しても、あたかもそれに同調するかのような素振りを見せておくのです。保身を図れば差し当たってうまくいくでしょう。しかしそれは、「わたしに対して仕掛けられた罠」(9節)に陥る危険性を孕むものです。悪い言葉に対して同調するかのような姿勢を示す日常を過ごせば、次第に自分の心をむしばみ、それはやがて自分の口が語る言葉に現れるようになるでしょう。人は罪に対して脆いものです。 この詩人は、主に献げる祈りが受け入れられるようにとの言葉で、この詩編を書き始めています。主に向かって敬虔な祈りをささげるその同じ口から、汚れた言葉が語られてはなりません。そのためには自分を戒めてくれる信仰の友が必要であり、主を避けどころとする信仰の戦いが必要です。主が守ってくださいます。 【祈り】 主よ、わたしは目をあなたに向け、あなたを避けどころとします。

  4. 2日前

    不法の者からわたしを救うわたしの神へ(詩編 140編)

    主にわたしは申します 「あなたはわたしの神」と。 主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、わたしの神よ、救いの力よ…。 (詩編140編7節~8節) この詩編の作者は、敵の謀略の中で攻撃を受けています。ここで敵が用いた攻撃の武器は「舌」と「唇」、つまり言葉です。そして、その言葉は直接的に彼自身に向けられた誹謗中傷だけではなかったようです。敵は彼に「罠を仕掛け、綱や網を張りめぐらし」、彼の「行く道に落とし穴を掘って」いると彼は訴えています(6節)。彼の敵は周囲にも働きかける偽りの噂を吹聴するなどして、彼を社会的にも陥れていたのでしょう。彼が受けた傷は、心の傷だけではありませんでした。 そのような状況で彼は主に向かい、主を呼び求めて、「あなたはわたしの神」と、自分自身と主との関係を告白しました。「わたしの神」という主への呼びかけは、ここではもっぱら祈祷者個人の信仰の告白です。この呼びかけの背景には、これまでも主によって実際に助け出されてきた彼自身、個人の体験が息づいています。 偶然助かった、運が良かった、と思われる数々の出来事は、すべて主が配剤してくださった出来事なのです。いにしえの、救われる前の出来事も、すべて。その一つひとつを思い起こすとき、私たちもまた、どのような敵の攻撃の中にあっても「わたしの神」が正しく裁いてくださることを確信することができます。 【祈り】 主よ、わたしの神よ、あなたこそわたしの神。わたしはあなたに信頼します。

  5. 3日前

    悔い改めて新たな希望に生きる(エズラ記 10章)

    エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、…男、女、子供から成る非常に大きな会衆ができた。この人々も激しく泣いていた。 (エズラ記10章1節) イスラエルの人びとは捕らわれの地バビロンから帰国し、エルサレム神殿の再建、そして、故郷に戻ることができた感謝と新たな献身をもって神礼拝を再開しました。ところが、しばらくするとイスラエルの人びとの心がまたもや神から離れてしまいます。異教の神々を信じる者たちと結婚し、その生活習慣から離れられなくなってしまったのです。 エズラはぼう然として肩を落とします。そして涙ながらに神殿で祈りをささげました。彼の祈りには、自分たちの犯している罪の告白、それも、神の憐れみをたくさん受けているにもかかわらず、さらなる罪悪を重ねている事の重大さを正直に打ち明けていくものがありました。 イスラエルの人びとの度重なる罪の姿に目を覆いたくなります。しかし、涙ながらに祈るエズラの周りには、同じ悔い改めの気持ちをもったたくさんの人びとが集まり、男も女も子どももみな神に立ち帰る決意を表明したのです。この悔い改めから希望を見出す者が現れ、具体的な悔い改めの行動を取り始めていきました。 一人の悔い改める者がいて祈るなら、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が与えられ、共に神との交わりを回復していく道が開かれていきます。そこにも主の憐れみが確かにあるのです。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちが罪に気づいたら、素直に悔い改めの祈りをささげられるようにしてください。

  6. 4日前

    神よわたしの罪は大きいのです(エズラ記 9章)

    「わが神よ、…わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。」 (エズラ記9章6節) エルサレム神殿が再建され、バビロンから戻った人びとと共に神を礼拝する日々が訪れたとき、大きな事件がエズラの耳に届きます。異教の神を信じる人びとと婚姻関係を結ぶ者たちが出始めたという報告です。彼らとの結婚が禁じられたのは民族差別からではありません。イスラエルの神、主とのつながりに生きる道を聖く保つためでした。しかし、イスラエルの指導者たちを始め、イスラエルの民は、異教の習慣に身を染めても何も感じなくなってしまいました。 エズラはこの悪事を知って落胆します。しかし、そこで神に祈りをささげるのです。祈りにおいて、先祖の時代からの罪の告白、それらの罪に対する神の大きな憐れみの確認、今に至るまで自分たちが生かされていることの感謝、現在の罪の大きさなどが述べられました。その祈りが、罪の赦しを願う執り成しとなりました。 イスラエルの民に明らかな律法違反があるのは悲しむべきことです。しかしながら、このイスラエルの共同体の中に、罪の大きさに目を向けて告白し、執り成しを願う者が一人でもいるときに、そこから真の悔い改めがなされていくようになります。 私たちも罪から目を逸らさず、罪の告白と悔い改めを祈るなら、再び神と交わりを回復できるのです。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちの罪は大きく、あなたを悲しませます。そのような私たちを深く憐れんでください。

  7. 5日前

    神は今も祈りを聞かれる(エズラ記 8章)

    そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。 (エズラ記8章23節) 新しく何かを始めるときには、不安や戸惑いを感じます。エズラがバビロンからエルサレムに出発する際にも、後に必要となるレビ人の不在を懸念していました。そのため神殿に仕えるレビ人を確保できるように尽力します。 また、エズラがエルサレムに向かう時には、神殿に献げる金や銀、金杯や良質な青銅の器などの祭具を大量に携えていくことになっていました。これらの貴重な献げ物を所持しているなら強盗に襲われる危険があります。強盗だけではなく、一緒にエルサレムへと向かう人びと、そこにいる祭司やレビ人の心が誘惑され、献げ物を着服してしまう可能性も考えられます。エルサレムへ上るときに彼の心に大きな心配があったことでしょう。だからエズラは、あらゆる不安を感じる中で神に祈るのです。神に献げられたものが盗まれることなく、すべて正しく献げられるように。働き人が不正をすることなく忠実に仕えることができるように。するとどうでしょう。ただひたすらに慈しみ深い神の御手を信頼する祈りが聞き入れられたのです。 神は、ご自分を信頼する者たちが礼拝による交わりを心から願う祈りを必ず聞き入れ、私たちを祝福してくださるのです。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちがあなたをほめたたえることができるように願う祈りを、聞き入れてください。

  8. 6日前

    神の御手があなたを守り助ける(エズラ記 7章)

    エズラは、…モーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた。 (エズラ記7章6節) エルサレム神殿が再建された後、エズラがバビロンからエルサレムへ上ることになりました。エズラは神が与えてくださったモーセの律法に詳しい祭司であり書記官でした(6、11節)。 ペルシアの王アルタクセルクセス王はエズラに親書を送るほど信頼を寄せており、イスラエルの民の宗教生活についての責任と特権をエズラに与えました。親書の内容はイスラエルの民に対して好意的であり、全面的に支援する内容です。神殿への献げ物、神殿儀式に必要な祭具、生活に必要なものを十分提供することが約束されています。不足があれば国の費用から賄うことも許可されます。更に、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人など、神殿に仕える者たちに対する免税措置も約束されました(24節)。これらの待遇を得たエズラは、大きな見通しを得ながら、共に上る者たちを集めてエルサレムへと向かいます。そして、エルサレムに到着したエズラは、主の律法を研究しながら実行し、イスラエルの民に掟と法を教えました。 御言葉に親しんでいたエズラは、すべてに神の御手による守りがあったことに気づきました。そこから神に感謝し、御名をほめたたえることができたのです。 【祈り】 天の父なる神よ、御言葉からあなたの守りが常にあることに気づき、感謝できるようにしてください。

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