『弱さ考』井上慎平のままならジオ(ままなラジオ)

井上慎平(『弱さ考』著者/問い読共同創業者)

「ままならジオ(ままなラジオ)」は人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者・井上慎平が、哲学や読書を手がかりに、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考えるポッドキャストです。 焚き火の音とともに、あわただしい毎日の「余白」となれば幸いです。 思考すること、問いを立てること、対話することが好きな方へ。 ■井上が主催するオンライン読書プログラム「問い読」はこちら https://go.toidoku.com/inoue ■お便り・感想はこちら:https://forms.gle/NaDpXUbzPB3Tri6PA ■著書『弱さ考』:https://amzn.asia/d/0j1A47b1

  1. 1日前

    考えない人は不幸なのか?|ままならジオ(ままなラジオ)#21

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 考える人生、多くのことを知る人生って本当に幸せなのかしらん?そんなことをずっと考えて、ある一つの答えにたどりつきました。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 考える人生、多くのことを知るってほんまに幸せなんかねえ。 最近、というかずっとそんなことを考えてます。 そんなことを考えるようになったのは、最近のSNSが大きいかなあ。 SNSのほうでいえば、僕たちはSNS以後圧倒的に多くのことを知ることができるようになったわけじゃないですか。 もちろんフェイクの情報も山ほど溢れててそれはそれで大きな問題なんやけど、「鋭い考察を発信してくれる」っていういい点のほうが大きかったと、まだ自分は思ってるんよね。 でも、多くのことを知る過程で人は「ああ、世の中はこんなすごい人がたくさんいるんや」っていう打ちのめされるような体験もするわけやん? 本当だったら会って話したりできない人のとても頭のいい考えが自然に流れてくる。それってほんまに幸せなんかなあ、ってよく思います。今自分が若い頃やったらどうなんやろう。今SNSで、一瞬で世界のトップクラスの人間の技術がかいま見えてしまったら、多くの子どもは「自分はこうはなれない」って絶望してしまうんちゃうかなあ。 もちろん、「自分が世界一になる!」って思って、才能が開花して、実際に世界一になるみたいなサクセスストーリーもあるやろうけど、それはほんの一握りの才能ある人にとっての希望であって。多くの人にとっては早すぎる挫折でしかないわけです。 いろんなことを知れてしまう世の中っていうのは、ある種残酷やなあと。 いやー、娘にいつからSNSをOKにするのかは、悩みますね。少なくとも僕は井の中の蛙でいられる幸福な時期が長いことは、悪くないんちゃうかなって思ってます。 あと、考えない方が幸せかも?たくさんのことを考えたり、知る人生が幸せか?って思うのにはもうひとつの理由がありますね。 やっぱり僕が出版業界にずっと身を置いてきたからそんなことを考えるんやと思うねんな。 やから、そこまでいったん振り返って話してみようと思います。 あらためて簡単に自己紹介をすると、僕は本の世界にどっぷりつかってきた人間なんですね。 出版社2社で働いた後に、NewsPicksパブリッシングという書籍レーベルを創刊した際の編集長を務め、ほんで退職して、今度は編集者から著者になって『弱さ考』という本を出した。 その後、「問い読」というオンライン読書プログラムを提供する会社を共同創業しました。 こう聞くと、すごい本好きなんだなと思われるかもしれないですが、そうでもないんですよね。もっと本好きな人は出版業界にたくさんいたし、そもそも「なかなか本なんて読めないし、読もうとも思わないですよね」っていう問題意識から、問い読だって創業しているんで。 新卒で出版社に入ったのだって固い決意があったちゅうよりは流れ着いたって感じですよ。 で、流れ着いたままに、最後まで染まれなかったというのが正直なところかなあ。 やっぱり出版業界って本を愛している人が多いから、やっぱりどこか本を読むことを尊いことやと、当たり前のことのように思ってる節があるんですよね。 つまり、「本を読み、より深く考えた人生のほうが幸せな人生だ」という価値観がマジョリティやったと。 でも、ほんまにそうかな?と思うところもあって。 本を読むっちゅうことは自分の世界を相対化する、客観視することでもあると思うんですよね。 知らなかったことを知る。この世の中が、人間の構造を知る。小説やったら他人の人生を追体験する。 そうすると、どんどん自分の人生「以外」のことを、その外の可能性を知っていくわけです。それによって救われることはもちろんあります。 ただ、その逆、まったく本を読まない人生が、読む人生に比べて貧しいものかっていうと僕は全然そうは思わないんですよね。 もちろん、出版業界の人全員が「本を読む人生のほうが豊かだ」と考えてるわけではないですよ?ただ、そういう空気があんのはたしかやし、もう一歩踏み込んで言うと、どこか本を特権化して、本を読める人をいちだん上に位置付けがちなんは、否めへんよなあと思うわけです。ひとことでいうと偉そうになっちゃうというか。 で、本を読むだけが考えるでは当然あらへんわけですけど、ここで、考える人生は幸せか?っていう冒頭のテーマにもっかい戻ってみたいんです。 考えることは、自分の人生を相対化することやと。 じゃあ、その逆は、自分の人生を絶対化してる状態なわけです。 ふだん使いの言葉で言えば、考える人は、自分を客観視できとることが多いんですよね。 深く考えない人は、より主観的に生きとる。 相対的に自分を見ることができる。客観視ができる。それは、偉いように聞こえるんですけど、でも、究極それをやらんと、生きて来れなかったということでしょ? だいたい、苦しいから本に救いを求めるんですよ。太宰か誰かが「小説など読まぬで済む人生ならそれに越したことはない」って言ってたんですけど、ほんまそうやなって思うんですよ。 考えないと生きてこられんかった人生やった。そうやとしたら、その人生自体は尊いと思うんですけど。でも、あんまり深く考えへん人のことを下に見るのはちょっとちゃうんちゃうか?って思うんですよね。 そうやって自分に言い聞かせないと、考えたり本を読む人間はどんどん、「考えて生きる自分は偉い」「本を読む自分は偉い」と鼻持ちならん方向に行ってまうんですよね。自然と。 人間は、自分が好きなものを高く評価したがります。 それによって、その好きなものと結びついてる自分も立派な存在やと思いたがるからです。 ほら、バンドマンに聞くと、ギタリストはギターが一番かっこいいと思ってるし、ドラマーはドラムがいちばんかっこいいと思ってるやないですか。 あと全然関係ないけど、「もう一回生まれるなら男と女どっちがいい?」って聞いたときにだいたい男は男、女は女って答えがちなんも、この好きなものを高く評価する気持ちが影響してるんちゃうかなあって思います。知らんけど。 このあたりは、ピエール・ブルデューっていう社会学者が書いた『ディスタンクシオン』っちゅう本から僕はインスピレーションを受けました。 やから、本を読む自分に対して抑制的でありたいっちゅうか、「あんま調子乗ったらあかんぞ」って言い聞かせとくくらいでちょうどいいと思うんよなあ。 あと、これはみなさんともぜひ一緒に考えてみたいんですが、自分のことを客観視しない人生ってシンプルに幸せですよね?  だって、他人と必要以上に比べないってことやから。 今も昔も、愛されるキャラクターって、自分のことを客観視できてへん感じがするんですよね。寅さんとかね。 漫画やアニメの主人公になるような人っていうのはことごとく客観視が欠けてたりして、そこが魅力やったりするんですよね。それ、ちょっと憧れてまうなっていう。 まあ寅さんは極端やとしても、あんまり客観視せずに、周りをキョロキョロせずどっしり構えてのんきに楽しんでる人は、けっこう幸せやと思うんですよ。 それを、なんか俯瞰した感じで小バカにするのは、ちょっとちゃうなって。 まーほんまのことをいうとね。自分やって鼻持ちならへんやつなんですよ。こうやって語ったりしないと、すぐ「本を読んでる人が偉い」なんて思ってしまうちっこい人間なんですよ。 だから、出版業界で、「この人本を読んでる人が偉いと思ってるな」っていう人を僕が気に入

  2. 7月15日

    見えない重りを引きずって歩くあなたへ|ままならジオ(ままなラジオ)#20

    どうせレールから外れてしまったなら、その先の景色を味わい尽くすしかない。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 今日は「世界との摩擦」について考えたいと思います。これ、僕はよく使う言葉なんやけど、その割に「世界との摩擦」って具体的に何なんや?ってことはあんましっかり考えたことがなかったなと思って。 「世界との摩擦」って、大きい人と小さい人がいると思うのよね。世の中には。 摩擦が大きい人は、なんちゅうの? 生きているだけで抵抗の大きな人。ふつうの人がふつうにこなせる「生きる」ということを、こなせはするんやけど、すごい疲れてしまう、みたいなイメージかな。 なんかみんながふつうに陸を歩いてんのに、自分だけ水中で、まさに抵抗や摩擦を感じながら歩いてるみたいなイメージかな? うーん、やっぱ、具体的な自分の実感から話してったほうが伝わりそうな気がすんな。 僕はね、5年前に鬱を発症して、そこからうっすら鬱とがっつり鬱の間を行ったり来たりしてんのよ。 今日は1日元気でした!っちゅう日はまったくないのね。 で、鬱の症状はどんなんかっていうと、詳しくは#5の「鬱っぽい人の憂鬱な日常」で話したからそちらを聴いてほしいんですけど、ひとつは人と話すんがめちゃくちゃ疲れるってことなんですよ。あ、でも人と話すんが大好きな人間なんでね、僕と話す機会がある人は「疲れさせてるな」とかはマジで感じんといてほしいんですけどね。このうえない喜びですから。 でもまあしんどいんは事実なのと、あと、それが他人からはぱっと見そんなわからんってとこにもまた二重のしんどさがあるわけですよ。 話してる間の僕って、そこそこ普通に見えると思うんですよ。ただ、自分にとっては、何や? 見えない鉄球が手足にくくりつられているような感じですね。 少しの時間なら一緒に歩けるけど、長い時間ずっと歩き続けることはできへんって感じかな。あと、この鉄球は周りの人には見えへんねやっていう感覚もすごくある。 いや、僕は障害という「ままならなさ」をOpenにしてるからめちゃくちゃ恵まれとるほうなんやけどね。 なんで鉄球のたとえ出したんやろな。さっきの水の中を歩いてるでも全然よかってんけどな。なんか僕のなかで、市民プールのおばちゃんが浮かんでしもたんよね。 まあまあ、そこはええとして。 別に不幸自慢をしたいわけではなくて、ふつうの人がふつうにこなせることを、こなせはするけど、すごい疲れる、って程度の差はあれ誰でもなんかの場面ではあると思うんよね。 もう少し違う表現で言えば、ルールとのズレみたいな感じかな。たとえば、人間は集団で生きてかなあかんから、集団行動が苦手やともう学校に入るくらいのタイミングからそのルールのズレに苦しむやないですか。職場でもルールとのズレに困ってる人たくさんおると思う。 で、僕は今どんな人間になったかというと、世界との摩擦が大きい毎日をなんとかこなしてる人こそ「おもろい!」って思うようになったんよね。なんかもうシンプルにおもろ!って。 いや、面と向かって「それ、おもろいな!」とはそうそう言わんけどもね。 でも、おもろい!って純粋に関心を寄せてしまうんよな。 これは僕がそういう人間に変わってしまったんやというしかない。 今思ったんやけど、この世界との摩擦っていうのが、世に言う「生きづらさ」っていうことよね。これも#6の「「生きづらい」という言葉の危うさ」で話したから繰り返さへんけど、あんとき言わんかったこととしては、「生きづらさ」みたいな、自分の負の感情をなんでもかんでも受け止めてくれる万能ワードを使ってたら、それ以上考えが深まらへんような気がするねんな。やから、わざわざ世界との摩擦が〜とか言って、こうやって発信してるんやろね。 いやー、嫌なやつやね〜自分。自分だけ深いこと考えてるみたいないい草やね〜。まあ、そういうめんどくさい人間なんですわ。嫌いじゃない。嫌いじゃないよ! 僕はね、けっこう自分のこと好きですよ。まったく立派な人間やないし、自分の嫌いな部分も、そらたくさんあるけどね。自分のことをめっちゃ好き!と自分にはとても嫌いな部分があるっていうのは両立するんですよ。すごくナチュラルに。 なんの話やっけ。 もう迷子になってるけど、これって一個前の「理不尽について」の回で話した誇り、プライドの話と関係してるんよね。 「世界との摩擦」が急激に大きなった状態が理不尽なわけやから。それを一過性のものやなくて、ずっと続く慢性的なものと捉えると、理不尽やなくて「世界との摩擦」っていう表現になるんやな。 やからここでも、それを誇って生きていこうやということはもう一回言っときたいよね。 なんで誇れるんかっていうと、それは、その人がつけてる鉄球が誰にも見えへんからです。周りの人にはふつうに生きてるように見えるからです。 誰にも見えへんから自分で褒めてあげるしかない、っていう消去法で考えるんやなくて、誰にも見えへん鉄球を抱えて、それでもなんとかやってる自分まじですごいな!って素直に思うことです。無理なポジティブシンキングとかやなくて。だってすごいやん?回りの人からは見えへん鉄球をつけて歩いてるって。 世界との摩擦が大きいということは、また違う言葉で言い換えてみるとマジョリティのレールから大きく外れてしまったっていうことやと思うのね。 で、どうせマジョリティのレールから外れてしまってるんならその景色を楽しむしかない。 ただね、そう言うと「井上さんは自分のままならなさを本として売り出したり、こうやってラジオで話せてるからいいじゃないですか。私はただ苦しんでるだけです」って感じる人もいると思うんやけど。 まず、それはその通り。やけど、その「世界との摩擦」を社会的に認められるような価値に変えていけるか、役立てていけるかっていうことは実はまったく大事ではなくて。 味わっていくちゅうことが大事なんよ。 「世界との摩擦」はどうにもできひん理不尽なもんとして、ある。その事実はどうにもならん。自分はマジョリティのレールからは外れてしまっとる。そういう状況にいるなら、もうその外れたレールの先にある景色を味わい尽くすしか選択肢はないわけよ。 この「どうせ」っていう開き直りの精神が大事やと思ってんねんな、おれは。同じようなままならない状況に対して、「せめて」って頑張るか「どうせ」って開き直るかの二択があると思うんです。でも、「せめて」ってがんばって、マジョリティのレールに乗っかってるかのように強がってもあんまええことないからね。 そもそも強がっていること自体をみんな気づかんし。それやったら「どうせ」って開き直って味わいにいくくらいの気持ちのほうがいっそ清々しいやんっていう気がする。 ただ、それには大事なことがあって。 なんでもいいから、形に残すことが大事やと思うんよね。具体的に言えば、多くの人にとってはそれは「書く」か「話す」かっていうことになるんやと思う。 僕は『弱さ考』で書いて、こうやってラジオで話してっていうのを意識的にやってます。 「世界との摩擦」の先に見える景色を、おいしいネタにして形に残してる。摩擦が大きいって事実は「どうせ」変わらんわけやん? そこで自分が心と身体をもって感じたことを書く、あるいは話すって決めたら、全部がおいしいネタになるっていう。 「おいしい」っていう表現はまあ関西人特有やと思うんですけど。 でも、どうせ「世界との摩擦」が大きいならその人にしか味わえへんもんを味わい尽くしたほうがいいとほんまに思うし、一方で、味わい尽くすにはその先に話すなり書くなり、形に残す、アウトプットする作業がイメージできてへんとなかなか味わい尽くすんも難しいなっていう気がする。 これは土門蘭さんっていう人が書いた『ほんとうのことを書く練習』っていう本に教えてもらったことなんやけどね。 さっきの「井上さんはままならなさを表現に変えてるけど、自分にはそれはできない」って

  3. 7月8日

    理不尽について|ままならジオ(ままなラジオ)#19

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 人生における理不尽とは何か。そして理不尽をどう引き受けていくんか?今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 理不尽。きたね。ザ・ままならなさって感じのテーマですね。 いやー、おもろいもんで。僕は鬱を発症して障害者にならんかったら、絶対こんなことを深く考えなかったでしょうね。 初めての方もいるのでお伝えしておくと、僕は5年前に1年ほど深い鬱になり双極性障害の診断を受けています。今も、うっすら鬱と、がっつり鬱のあいだを行ったりしたりしながらなんとかやってます。 やから僕にとって、理不尽とはまさにこの「しんどさ」のことです。毎日鬱ちゅうんは毎日しんどいっちゅうことですからね。でも、人には人それぞれの地獄がありますから。これを聞いている方にも、必ず理不尽はあると思う。それをどう受け止めるかですよね。 理不尽でわかりやすいのは、不慮の事故とか、病気とか、障害とかですよね。あとは急なリストラとか? 僕にとって「理不尽」って結局なんなのかっていうと、一言で言ったら因果関係が崩壊することやと思うんですよね。因果関係というのは、要は原因と結果のことです。原因と結果が、頭の中で全然結びつかへん状態が、理不尽。 まず、「事前に予測不可能やった」ってことが大事ですね。結果が予想できなかった。 不慮の事故の「不慮」って予期せず・思いがけず、って意味ですからね。 で、この思いがけずっていうのが、自分がどうにかできる範囲の「外」で起こってしまうこと。 自分が起こしてしまった事故は、反省や後悔はするけど、理不尽ではないんですよ。自分に原因がある場合はね。 でも、自分の家族が、知らない誰かの運転によって交通事故にあってしまった。これは、自分に原因はないわけですよね。 人間はいつも、だいたいこういう原因にはこういう結果が起こるっていう予測を立てて生きてるんですよ。でも、その原因と結果の関係が壊れる。自分はまったく悪いことをしてないのに、とっても悪い結果が生まれる。そのとき、原因と結果の因果関係が壊れるんです。人はそこではたと立ち止まり混乱するんです。「こんなん理不尽や」と思うんです。 僕がこのラジオの#1で話した「世界は残酷だ」っていうのはそういうことです。いいことをすればいい結果が待ってる。そんな優しいふうには世界はできてないんですよね。 この理不尽の感覚は時代によっても違うんでしょうね。子供を10人産んで2,3人成人すればラッキーっちゅう時代ってめっちゃ長かったわけです。たとえば、一人子供を失ったとする。その悲しみの度合いは時代によって変わらんとしても、それを理不尽と感じるかというと、その度合いは、昔のほうが低いんちゃうかなと。 逆に言えば、人類は医療を進歩させたり、社会のなかに法律を作ったり、差別を少しずつなくすことで、理不尽が生まれへんように努力してきたとも言えるわけで。 そういう観点から見ると、現代人は理不尽そのものに弱いし、理不尽なれしてへんのですよね。 さて、じゃあいざ理不尽がやってきたら、どう引き受けるかってことですよね。僕のなかでは「引き受ける」と「受け止める」は全然意味が違う言葉なんですよ。 受け止めるは整理して、納得してる感じがするよね。それに対して、引き受けるは「イヤダイヤダ」と言いながらも、なんとか立ち上がって歩き始めるイメージです。再び歩き始めないといかん状況がやってくるイメージです。 理不尽を受け止めるなんて、無理やからね。イヤダイヤダでええんよ。ただ、そこまでいくにもまず、大前提としてだいぶ時間がかかる。 心がケガしてる状態やからね。理不尽に直面したら心から血が出てる。そんときはまず止血することを考えてほしいです。自分の気持ちを楽にしてくれる本にすがってもいいし、人前で突然泣いてもいい。とにかく心の出血を止めるのがまずいちばん大事。 そこから、長いアップダウンの旅路がはじまるんよ。「ああ、なんとか自分はこの理不尽を引き受けれた」と思ったらある日「全然引き受けられてへんやんけ、自分」って気づいて愕然としたり。 「わかった、もう大丈夫や」「全然わかってなかった」の繰り返しですわ。僕が自分の障害を引き受けるために、何回も繰り返し通った道やね。 でも、引き受けるだけでも時間がかかるってことを知っておくのがまずは大事で。何十年もかかるかもしれへん。それを一気に解消しようとしすぎると無茶苦茶な方法にすがったり、オカルトに引っかかってしまったりするんやな。 あとは、考え方の転換やね。これが大事、っていうかもうこれしかあらへん。 「考え方を変えてみましょう」とか言われたら、理不尽に出会う前の、マッチョイズムゴリゴリの若かりし自分からしたら、なんかヘタレやな、自己啓発チックでなんかいややなって思ってたんちゃうかなあ。 でも、今は全然思わへん。 さっきは因果関係が壊れるって言ったけど、それってようは偶然、たまたま起こるってことですやん。でも人間って偶然を偶然のまま受け入れられるほど強くないと思うんよね。 僕、西田幾多郎っていう哲学者が、小さな娘を亡くしたときに書いた文章が好きで、彼はこう言っとるんよね。 「さっきまで遊んだり楽しそうに話したり、歌ったりしてたじゃないか。そんなお前がなんで今骨壷の中にいるんだ」って。で、その後に「もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ」って言うんですよね。 「意味がなくてはならぬ」。これってすごく強い宣言に見えて、弱さが露呈しているのが僕は人間らしくて好きなんです。 意味を作り出すっていうのは、壊れた因果関係をもう一回作り直すってことですよ。で、「意味をつくるんだ」って自分で言っちゃうってことは、すごく悪い言い方で言えば捏造するってことですよね。でも、そうやって自分なりに物語を捻り出さないと、人間はもう一度立ち上がって歩き始めるなんてできへんのですよ。ほんまの理不尽に打ちのめされたら。 じゃあ、考え方の転換っていうのは実際にどうやんのかと。あくまで僕にとって効果があったことを、共有しますね。 まず、原因と結果が一対一で対応してるんやっていう考えをやめることです。たとえば、「僕がAって言ったから、あの子はBをしてしまったんや」みたいなAだからBになったみたいな考え方をやめてみる。 自分のことを責めてる人の頭ん中に必ずあるんは、この原因と結果を一対一で対応させる因果関係ですね。 でも、当たり前ですけど、原因は、一億とか、一兆とか、それこそ無限にあるんですよ。僕が障害を負ったのも、遺伝子的な問題もあるかもしれんし、たまたまコロナ禍やったとか、それこそ20代のときたまたま運良く結果が出せたことが、巡り巡って鬱に繋がっとる。もうね、歴史とか自然科学とか社会学とかを学べば学ぶほどわかってくるんは、とにかく世の中たまたまでできとるってことです。 でも、さっきの西田幾多郎の例で出てきたように、たまたまで済ませられるほどに人間は強くないんです。人間って原因と結果が対応してないと、ものすごく不安になる生き物なんですよ。これは『弱さ考』の6章でしっかり書いたんで、よかったら読んでみてください。 一個だけ紹介すると、この「原因は一対一対応やない」ってことを僕に教えてくれたんはスピノザっていう哲学者なんですね。彼は、原因は一個ではなく群であるって。僕もほんまにそう思います。 原因を一個に絞っちゃうのは人間の脳がしょぼいせい

  4. 7月1日

    「お母さんの多様性」少なすぎ問題|ままならジオ(ままなラジオ)#18

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) おれらのお母さんイメージ、まだサザエさんの時代から変わってなくない?今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 さて、今日は「お母さんの多様性少なすぎ問題」。いや、多様性はわかるけど「お母さんの多様性」ってなんやねん。そう思われる方が多いと思います。 多様性ってもうみなさんここ10年くらいでいやっちゅうほど聴いてますよね? だいーばーしてぃってやつね。 で、多様性って言葉ってだいたい、性格的にもっと尖ったやつを採用しようとか、女性の管理職比率を高めようとか、経営陣がおっさんばっかりやとあかんとか、グローバルに外国人を入れようとかそういう流れで使われるわけです。 でも、ままならジオ管理人は思うわけですよ。もっと「お母さんのなかでの多様性」考えなあかんのちゃうの?って。えっとですね、この話は前回の「男の男による男のための「こっそりジェンダー反省講座」からつながってて、全然今回だけでもわかるけど、もしそっちも聴いてもらえたらより理解が進むんちゃうかなって気がしますので、よかったらぜひ。 これ、たぶん具体的なエピソードから話したほうがわかりやすいんよな。 僕の友人夫婦の話をさせてもらいましょか。 その夫婦とは家族ぐるみの付き合いでね、今はとっても仲良くしてるんやけど、最初まだ友人と呼べるかはわからん、友人と知人のあいだくらいのタイミングで、一回4人でランチでもしようってなったんですよ。 そしたら相手のお母さんがね。 「私子どもと遊んであげるとか、公園につれてってあげるとか苦手なので、そこは夫がほとんどやってくれてます」っていうわけ。相手家族には子供が3人いるんですけど。 おれ、びっくりしちゃったんよ。びっくりしたってことは、おれんなかにも「お母さんは公園に子供を連れて行ったりするもんや」って俺自身が思ってたってことやね。要は「それ言ったら、人によっては引くかもしれへんやん」って感じてたんやね。いやー。あさましやー。 で、まあびっくりしたのよ。びっくりした後に、最高やなって思ってん。 別にお母さんやからいわゆる世間でイメージされる母性あふれるキャラであるとは限らへんのやし、別に母性を公園に子供を連れて行くって形で発揮せんでええわけやしね。 しかもそれを、まだゆっくり話したことないタイミングで言うんが最高なんよな〜。当たり前じゃん?そういうのあるじゃん?って感じで。 でも、そこで自分がびっくりしてしまった、ってことをきっかけに考えたんよ。これだけ時代が変わったのに、おれのなかのお母さん像更新されてなくないか?なんやったらドラえもんやサザエさんくらいから変わってなくないか? これ前の回でも言ってんけど、この30年で「お母さん」をめぐる状況はめっちゃ変わったと思うんよな。 おれらの親の世代では専業主婦家庭のほうが多くて、今は共働き家庭のほうが多数派になってる。それはもうデータででとる。 でも「お母さん像」は更新されてないから、結局共働きのお母さんは、親世代からは「もっとお母さんらしいことしてあげんと」とかいらんこと言われながら、一方で共働き、しかも建前だけは男女平等やから、ばんばん振ってくるハードな仕事もこなさなあかん。 「立派な母親」と「立派なビジネスパーソン」の二足の草鞋を履かなあかん人がめちゃくちゃ増えとるわけよ。僕は『弱さ考』っていう本を書いてから女性向けのメディアによく呼ばれるんやけど、「母親の方が、仕事と育児を両立できないことで自分を責めてしまうんです」っていう声をめっちゃ聞くわけ。 いやいや、もう、絶対に無理でしょうと。 しかも、現代って労働の密度というか強度が上がってて、脳疲労なんかも30年前とくらべもんにならへんくらい溜まってるはず。そんなかで仕事するだけでも大変やのに、たいがいの場合、料理も作って、ままーって甘えてくる子供の相手もしてって。絶対に無理。これを無理ゲーと呼ばずしてなんというかっちゅうね。 昔はおばあちゃんがそこに入ってきてたんやけどなー。今は都市に住む人がおおなって、実家が遠くにある人も多いし、もし力になってくれたとしても、「働く」「育てる」ということに対する感覚が違いすぎて、喧嘩になったりね。そういう親世代とのいざこざみたいなんもしょっちゅう聴きます。わかるんやけどな。時代の変化が速すぎるんよ。 なんかこう言うと、自分がいかにもちゃんとやってますみたいに聞こえるから一応言っておくと、僕、まったく料理できないんですよ。妻が全部やってくれてるんですよ。一回産後に「このままではあかん」と思ってトライしてみたんやけど、二品以上を一緒につくるってことがどうしてもむりで、結果的に「不味い・遅い・汚い」の三拍子揃ってもうて、結果として妻に料理は全部任せることになりました。 おまえもたいしたことないんかい!っていうツッコミが聞こえてきそうですね。すんません。 そんなことを白状したうえでいうと、もっといろんなお母さんがいていいと思うんよね。いや、今もいるんやけどもっと当たり前になっていいと思うんよね。 ・料理をしないお母さん ・公園に連れて行かないお母さん ・子供に自分の生活のペースを合わせすぎないお母さん まあ、言えばいうほどこれはお父さんの問題やなって話になるんやけど。 でも、離婚ももっとナチュラルにあっていいと思うんやけどね。いまだに、バツイチとかシングルマザーって言葉がネガティブな響きを持つやん。 でも、夫が子育てどうせせえへんなら、もう「あんたとの結婚やめるわ」ってもっと気楽に言えるようになるといいですよね。いや、まあ、そんな簡単な話やないのはわかってますよ。わかってますけども。 ・すぐ旅に出ちゃうお母さん ・自分の趣味に関しては絶対に譲らないお母さん ・ママ友がめんどくさいからパパにネットワーキングをやってもらうお母さん なんかもいいですね! じゃあ今日は、どんなお母さんの多様性が考えられる?っていうテーマでコメントを募ってみようかな。 今日のままならジオはここまで。 僕が主催している、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」もぜひ知ってもらいたいんで、詳細を概要欄に置いておきます。 ちなみに、問い読にはいろんなお母さんの方がいらしてておもしろいですよ。 井上慎平でした。 ほんじゃあ、また。

  5. 6月24日

    (「男」の「男」による「男」のための)こっそりジェンダー反省講座|ままならジオ(ままなラジオ)#14

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎ 読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 実は男に生まれてる時点で、この人生、だいぶ楽してるみたいや、って最近気づいてん。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 はい。もうこんなにね、話し始めの時点で、「この回ウケへんやろなー」と思いながら話すんは初めてです。 でも、大事なことなんよな。説教くさくはせんから聴いていってくださいなー。 最初に言うとくと、この回のテーマは、男に生まれた時点でけっこう楽して人生生きられてんちゃうのっちゅう話です。でも、男の男による男のための、ってつけたんは、こういう話ってやっぱり女性から聞くとなんか責められてる感じがするやん? だから、たまたま鬱になって、社会のメインストリームから外れたからこそその構造に気づいた自分から、男の立場から、伝えられることを伝えたいなと。まあでも説教くさいのはやめたいなと。そうおもっとります。がんばります。 まず、僕がよく使うゲームっていう言葉について説明させてもらいましょか? これは#13の「人生はしたくもないゲームでできている」ってところでも話したから、もし興味ある人はそっちも聴いてくれたら嬉しいです。 僕たちって、いろんな場面でいろんなゲームをさせられてるんよね。 たとえば今日のテーマでいうと、男として生きるっていうゲームをまずさせられとる。 ゲームって表現することで伝えたいんは、まず、必ずルールがあるねんな、ゲームって。ほんでそのルールにしたがって、どういうプレーをすると反則で、どういうプレーがナイスプレーなんかが決まってるってことね。 小学校のとき必ずクラスに一人はいた冬場でも半袖半ズボンの子とか、やたら虫に触れることを自慢してくる子とかおりましたやん?あれは「男の子ゲーム」のなかでナイスプレーやからやってるんよね。 「女の子のゲーム」では、たぶんそれは減点対象です。 ゲームの大事なところは、プレイヤーである僕たちは、意識しててもしてへんくても、といいうよりもほとんど無意識に「いいプレー」「高得点のプレー」をしようとふるまってしまう、っていうところなんよね。これは、ゲームに気づかず最適化してる、みたいなこと。 ヤンキーって学校のお勉強をあんまりせん傾向にあるけど、あれは頭がいい悪いみたいなんあんまり関係なくて、彼らの行ってるゲームでは、勉強してテストでいい点とるっていうこと自体がそもそもポイント高くないからやったりする。それより、どんだけ度胸があんのか、っていうゲームに夢中になってたりすんのよね。 あと、複数のゲームを同時にこなしてるってことを意識しとくんも大事。職場での「ビジネス」っていうゲームと家庭での「生活」っていうゲームを同時にやってたりする。いつも複数のフィールドでゲームをやっとる。 ゲームって残酷で、いつも勝手に始まってしまう、僕らは勝手にそこに投げ入れられてしまう。 たとえば、僕は男に生まれることを選んでないのよ。でも、男として生まれた瞬間、男の子ゲームがはじまってしまう。 要は、僕らは選んでもないゲームに勝手に投げ入れられて、そのゲームのなかで高得点を撮ろうとしてまうから、けっこう性格やふるまいを選べてるようで、意外と選べてないって話ね。 なんか遠回りな話をしてるけど、そこに気づくのが出発点かな。 自分の意志でこうしてます!ってやってるつもりでも、ただその場のゲームのなかで高得点を取りにいってます、っていうだけやったりする。 で、現代社会、特に僕が『弱さ考』っていう本を書いて以来ずっと関心を持ってるビジネスのゲームって、めっちゃ異常なんよ。けったいなゲームなんよ。ほんで、女性のほうがそのゲームに慣れるのに大変さがある。個人差はあるけど傾向としてはたしかにあるっちゅうんが今日の話やねんな。これ、一話で終わるかなー。たぶん無理やな。 ビジネスのゲームのルールは意外とシンプルで、結果を出す競争のゲームなんよ。 ほんで、男性のゲームもだいたいこの競争でできてんねんな。いきり合いっちゅうか。 で、女性のゲームは?っていうと、この競争が抑制されるようにできてんねんな。いや、雑なくくりになってまうけど。男性としての僕からは少なくともそう見える。 だいたいの場合、学校を卒業するくらいのタイミングで僕らはビジネスのゲームに投げ込まれるわけやん?これも別に望んでそうしてるわけでもなくて、二十歳前後になったら就活っていうゲームが勝手に始まって、それを勝ち抜いたら「よきビジネスパーソンになる」っていう違うゲームが始まるのよ。 ほんで、女性のほうが、ガラッと一気にルールがかわんねんな。戸惑うねんな。 いや、別に競争だけが仕事やないで?ないんやけど、ビジネスのゲームはけっこう男に都合のいいようにできとる。全体としては。それが今日の言いたいことで。 いくつかあげてみよか。 まず、生理な?いや、わかるで。そんな生々しい話せんといてやっていう感じやんな?わかる。でもこれけっこう大事なんよ。 ビジネスのゲームって、パフォーマンスが常に一貫してることと、感情的になりすぎないことが、いわゆる高得点のプレーなんよな。 でも、生理になったら、一気にその「いつもどおりの自分でいる」「感情をうまく抑える」っていうその両方がむずかしなんねん。不可能ではないで?でも負担がごっつかかんねん。 なんでこんなことを僕がいま力説してるかっていうと、僕は5年前から鬱の波に襲われてずっと日常が不安定なんですよね。んで、鬱の波のなかにおると「いつもどおりの自分でいる」が全然無理になってもうたんです。前はそこそこできてたけども。 これ女性月一でやってんのかー、ってなったら、ビビるわ。だって人によって差はあるけど月の1/4からひどい場合は半分くらい「ふつう」とは言えへんねやで?しかもそれを表に出したらあかん。えぐい。 ほんで次に出産な?どれだけ男女平等な世の中になっても出産だけは女性に任せるしかしゃーない。で、これは二つの問題があるんよ。ひとつはキャリアの問題な。もうひとつは、体調の変化の問題。 まずキャリアのほうからいくけど、おれ、子どもを持つときにそんなキャリアについて悩まんかった。もちろん子育ては大変やけど、産休・育休みたいに物理的に職場に行かれへん時期があるわけでもないし。全然りっぱな人間でもなんでもなくて、たしか育休1、2週間しか取れへんかったんちゃうかな。あかんやっちゃなー。 『弱さ考』って言う本を僕は書いたんですけど、男性より女性のほうが反響大きくて驚いたんよ。ほんでいろいろ感想を聞く機会があったんやけど、そんなかで、女性はやっぱり一回出産と育児で、数ヶ月とはいえ、働くことで社会とつながってたんが切り離される感覚があるってことがわかってきたんよ。 おれはねー、その寂しさがごっついわかる。鬱のときに職場から離れて感じた、「ああ、この社会におれの居場所はないんや」っていう感覚とめっちゃ似てるから。 もう一個は体調の変化の問題よ。体調というか、性格ごと変わるからな、産後って。 女性は産まれた子供をとにかく守らなっていう気持ちが強くなるように、ホルモンバランスがかわんねんな。あんまりリアルタイムではわからんねんけど、僕の友人も、「子供が3歳くらいになるまでは、ちょっとでも子供になんかあったら異常に神経質になって、、、私、性格がちょっと変やったわ」っていうてました。「いろんなことに過敏になりすぎてた」って。 あと、体調の変化でいうと体力のこともあって。基本的に体力めっちゃ落ちてるんよ、

  6. 6月17日

    いちいち「今日」に驚くわ|ままならジオ(ままなラジオ)#16

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) いちいち今日に驚くわ。びっくりすんのが楽しいわ。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 なんかね、もう鬱を発症してはや5年近くなるわけですよ。 5年かー。ずいぶん、早かったなという感じがあります。「ふつうに元気な日」っていうのは1日だってなかったわけですが。そんななか5年もやってきのねーと。感慨深い。 今日は、鬱になってからの時間感覚の変化についてお話ししようかなと。 自分としてはね、鬱になってから「なんか生き急いどるな」という感覚がずっとあったんですよ。何かやりたいことがあったり、会いたい人がいたとき、その衝動を後ろ倒しにしない、「また今度」と考えへんくなったっちゅうか。その日思ったことは、その日にやる。 たぶんそれは、「死ぬこと」の感覚がずっと生々しくなったんやろうな、とそんなふうに整理してました。 死との距離感が近くなったっちゅうか。でも最近はそればっかりやないよなと思うようになりました。 っちゅうんも、別に自分の寿命が短くなったように感じとるわけやないんですよね。まあ平均年齢を考えると、あと40年50年生きるんかなー、っていうその感覚が急に変わったわけやない。 だから、よく言う「メメント・モリ」というか、死を思って毎日を生きるという感じとは若干違うんですよね。 いつ死ぬかわからん、っていう生きることの不安定さの再確認みたいなのはあったかもしれんけど。 たぶん、もうちょっと具体的に言うと「この安定した日常がいつ壊れてもおかしくない」ってことをいつも感じとるんでしょうね。 この感覚は、健康を一度失ったということが多いに影響しとると思います。うっすら鬱と、しっかり鬱を行ったり来たりしている毎日やと、まず自分の状態が数時間単位で安定しないわけで。昼頃には元気やったのに夕方には動けへんという日も珍しくない。 でも、この自分がいつか死ぬことに対する距離感というか感覚は、自分だけの話やないんですよね。みんな僕みたいに自分はなんとなく平均寿命くらいで死ぬんかなーというぼんやりとした感覚は持ってると思うんです。 ただ、そのなかでも健やかな状態で会える・話せることは当たり前やない。 人と人とが話すでも旅行にいくでもなんでもいいけど、何か一緒にするには当然ながらお互いがある程度健やかやったり、ライフスタイルに大きな変化があったり、急に引っ越す、みたいなことがなかったり…あらゆる、「特別なことが何もない」っていう状態が続いて初めて成立することやと思うんですね。 それがいまの自分には、あんまり大袈裟な言葉は使いたないけど、奇跡のように感じるんですよ。逆に言えば「今日会いたい相手が一年後にも会えるんやろう」っていう予想は、奇跡を期待しすぎやろうって感覚なんですね。 やから「今日会いたいと思ったら会う」みたいなことを大事にしてきたし、それが結果的に「生き急いでる」みたいな感覚につながってたんやと思うんやけど。 いや、ほんまに人体が動いているというのは奇跡みたいなことで。 急病になってない、脳の働きが悪くなってない、事故にあってない。何百億の微生物がバランスをとってうまくやっとる。 それって自分だけでもなかなかそれは珍しい人やのに、お互いが、身内の人も含めて緊急事態がない、ってもう針の糸を通すようなむずかしい話で。お互い何百個の、なんや? 信号で言うと青信号が灯っていないと、今日会うっていうそれだけのことができひんのですよね。 でもこういうことって、一度日常が崩壊しーひんとわからんのが人間の悲しいさがなんですよね。頭ではわかってても。 当たり前の日常に感謝すると言うとチープなんやけど…感謝というよりは驚くって感じですね。日常が日常として回っているという事実に驚くっていう感じかな。 僕はずっと鬱になったあの日から、偶然性・偶然性っていろんなところで言ってるんですけど、今日僕がこうやって生きてることにも、僕にとって大事な人が無事で生きてることにも、新鮮な驚きが常にあるんですね。いい方を変えれば、明日になったらそうやなくなってるかもしれないという恐れや不安が常にある。 「いつ何があってもおかしくない」っていうんは、単なる強迫観念とか焦りやなくて、この世界の真理や思うんですよね。そのことを、いつ当たり前が壊れるかわからんってことを、僕はずっと「世界の残酷さ」と呼んでいる。 たぶん、これを聞いている人のなかにも、そういう経験をして、その残酷さを知ることによって、今日が今日としてあることに驚けてるっちゅう人はけっこういるんちゃうかな。 今日に驚けること。それは健康を失った人に儚く残された特権なんやなと思います。でも、そうなるとけっこう楽しくてね。今日人と会えた、話せた、働けたっていうことがそれだけで嬉しいんですよ。このあたりも僕が鬱になってからかえってごきげんになれてることとつながってるんかもしれへん。 世界は偶然に満たされてるわけでしょ。その偶然性のなかでたまたま今日楽しく過ごせた。それはもう一回きりの奇跡みたいなもんよ。 一回きりしか立たない波を、ずっとサーフィンしてる感覚なんよな。今日の偶然のなかで今日を楽しむ。楽しめない日やってある。 そのなかでリスクも知りつつ飛び込んでいく。連絡を取りたい人には連絡する。今日会いたいと言ってみたりする。 このサーフィンは、見方によっては健康を失った人の悲劇なわけやけど、波に乗ったり海にドボンしたりしてる人間の側としては、けっこう喜劇として楽しめるもんでね。 僕は、「人生は自分次第や」っていう「みずから、する」の物語から、「人生どうにもならんこともある」っていう「おのずから、なる」っていうふうに、僕の物語は一気に書き換わったんです。このあたりは「おのずからとみずから」っていう本の影響をすごい受けてるんやけどね。どっちも自分の自に、「ら」って書く、同じ書き方やのに意味がまったく違うよね、ってことについて考察した、竹内聖一さんって人の本。 このおのずから、なるっていう物語は「ままならなさ」の物語と言いかえてもええと思う。で、それは、見方によっては無力感そのものなんよね。みずからこの世界を、自分をコントロールできへんってことは、「運命を切り開くぜ!」みたいな力強い言葉を信じることができんっていうことやから、なんというかすぐ虚無というか、虚しさにつながりそうやないですか。 でも、本人は人生は一回きりの奇跡のような波を渡り歩いくサーフィンなんやって思ってるから、そんなに虚しくないんですよね。というか虚しくなる暇なんてないほどに毎日がアップアンドダウンでハードボイルドなわけですよ。 やから今は、「ままならなさ」の物語に対して、ときに無理をしながら、明日体調が悪くなるかもしれへんけど今日は遊ぶんやっていうその無責任さに流されながらやってると。これはこれでけっこう楽しいのよ。 無責任って言ったけど、不安定な体調とともに生きていく自分には、未来に責任を持てるという感覚のほうがおこがましいくらいに思うしな。 今たまたま現れた波に乗っていく。その不安定なサーフィンが毎日をつくっていく。それを繰り返してたらいつか死ぬ。それは50年先かもしれへんし、明日かもしれへん。 なんでこんなこと話してるんでしょね。 たぶんそれは、今日現れた波がまた明日現れるかはわからへんねやで、っていうこの世の忘れられがちな真実を、やっぱりこれを聞いた人に驚いてほしいと思ってるからなんやろな。ほんで逆に

  7. 6月10日

    「合理性」は、人の数だけ|ままならジオ(ままなラジオ)#15

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)はこちらから募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」はこちら。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『弱さ考』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 合理的ってなんなん?もし合理的な答えがひとつやなかったとしたら、あなたにとっての合理的って何? 今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 合理的っていう言葉があるやないですか。 僕は鬱になって、自分の体と心が不安定になって社会から弾き出されるまで、この合理性っていうものについてあんまり考えてこなかったんですよね。 でも、いざ世界のルールみたいなもんが急にカオスになった。そうすると、「合理的ってなんやねん?」ってことについて考えざるを得なくなったんですよね。 「合理的」って言葉から、みなさんはどんなイメージを持ちます? なんとなく、たった一つの答えがあるような気がしませんか? 「合理的に考えたら絶対こうでしょ」「これしかないでしょ」みたいな。 でも、それがそうでもないんやな〜。 話がちょっと逸れるんですけど、僕が「合理的」なるものになんか物言いをしたくなるのは、ずっと 「経済合理性ですべてが決まっていいのか」 「経済合理性だけがいちばんの指標なんか」 みたいなことを感覚的に感じてきたからでしょうね。それについてしっかり考えたのは鬱になってからでしたけど。 あらためて自己紹介になりますが、僕はビジネス書をつくってきた編集者ですし、経済メディアで働いてたこともあるんで、バリバリ経済の世界で生きてきたんですよ。 そのなかで、自分にとっては違和感のあった「経済合理性」っちゅうもんを追わなあかんと同時に、その「経済合理性こそ命」というルールに乗り切れないところがあった。 この2つの気持ちが引き裂かれてしまって鬱になったと言えなくもなさそうやねんな。 やからこそ、「経済の究極的な目標って経済合理性なんやっけ?」っていうことについて考えたくなったんです。で、そしたら、僕より先にはるかに深く考えてた人がいた。彼らの書いてたものを読んでみたら、なんや、全然「合理性」ってひとつやないやん、って気づいたんです。 やから今日はその気づきを共有したいんです。あのときはほんまに感動したからなあ。 まあ小学生が「聞いて聞いて!」って目を輝かせて言っとるわ、みたいな感じで、つまらんかもしれんけど、聞いてみてください。合理的な答えって人の数だけ、何十億もあるんよ。 ちょっとね、眠たく聞こえたらごめんやねんけど、マックス・ウェーバーって人の考えを紹介したい。まず。あの、あれね、『プロテスタンティズムの倫理と精神』っていう通称「プロ倫」って呼ばれる本を書いた社会学者の人ね。 このウェーバーさんが言うには、合理性は二つあるんやと。 一つが目的合理性。単語は全然覚えんでいいですよ。 この目的合理性っちゅうんは、だいたいみんなが考える合理性と一緒やね。「いかに目的に対して手段が合理的か」「効率よく目的を達成できるか」を突き詰める考え方。 待ち合わせの場所にいくのにどの電車でどう乗り換えたら早くいけるか、みたいな、わかりやすいやつね。 一方で、価値合理性っていうもんがある、ってこの人は言ってるんよ。この価値合理性は、ある価値観や信念に沿っとるかどうかを大事にする考え方。 たとえば・・・経済を例に考えましょか。経済で言えば、企業価値を最大化することが大事やないんちゃうか?おれは「働いている人が安心感を持って働いてもらうこと」こそがいちばん大事やと思うんやっていう信念や価値観だってありうると思いません? そしたら、経営とか人事のスタイルも変わってくるやないですか。 株主にお金を還元するためには、がんがん人を減らして、業績へのプレッシャーを社員にかけていくことが合理的やけど、もし「安心感を持って働いてもらう」ことが目的やったら、その人の居場所をどうつくるか、みたいなことを大事にした全然別の組織ができると思うんよね。 ウェーバーさんがこの目的合理性と価値合理性の違いで言いたいんはこういうことです。ここ大事。 「合理的っていうけど、それってベースに絶対価値観や信念を含んでるよね」と。「やから、客観的にはなりきれへんで」ってことやと。合ってるかわからんけど僕はそういうメッセージとして受け取ったんよね。 「企業価値を最大化すべし」っていうのも一つの信念であり価値観にすぎへんやないですか。 「従業員の安心感を最大化すべし」っていうのが信念であり価値観であるのと同じように。 僕たちはあらゆる「合理的」っていう言葉に、「その合理性はどんな価値観や信念に対しての合理性なん?」って問い直すことができるんですよね。これは僕にはすごい発見でした。 すごない?これって突き詰めたら人には価値観ごとに一人ひとつの合理性があるってことやから。何十億もの合理性があるんやから。 はてさて。もう一人、僕が紹介したい人に渡邉雅子さんっていう社会学者がいて、この人は『論理的思考の文化的基盤』っていう名著を書いてはんねんな。 なんかゴロがええよな〜!「論理的思考の文化的基盤」。 この本は、何が合理的かっちゅうんは国の文化によって異なるよって本。 これね〜、だいたいこういう文化に関する話って、国民性みたいな曖昧な原因を持ち出すことが多いんよ。「日本人あるある」「アメリカ人あるある」みたいな話に落ち着いてしまう。 でも渡邉さんの何がすごいかって、そういう「あるある」を超えるために、教科書や小論文のテストっていう具体的で、目に見える素材を使って、4つの国ごとにいかに「何が合理的か」が違うんかってことを炙り出したところなんよな。 4つの国っていうのはアメリカ、フランス、日本、イラン。 アメリカがいちばんわかりやすくて、彼女はアメリカの合理性を「経済原理」と呼びます。まさにここまで話してきた、経済合理性な。いかに効率よく目的を達成するか。 じゃあ、日本における合理性は何か。彼女はそれを「社会原理」と呼びました。いかに他者に共感し、場の空気を読むことができるかをいちばんの価値にして「何が合理的か」が決まってるんが日本やと。日本の国語のテストって、とにかく心情、つまり気持ちの読み解きがめっちゃ多くて、22%もあるんやって。国際的に比較して、日本だけらしいですよ。こんな人の気持ちの読み解きばっかり考えてるんは。 残りの2つはさらっといくけど、 フランスは「政治原理」っていってとにかく議論をすること。議論をしまくって公共、つまりみんなにとってよりよい答えを追求する姿勢自体が価値あるものとされる。 イランは、フランスみたいに議論するのとは対極的やね。イスラム教によって正解がひとつに最初から決まっとるから、いかにそれに合う説明ができるかが大事。神が授けたたったひとつの正解に自分の意見をひもづけられれば、合理的とみなされるし、ひもづけられへんかったら合理的ではない。 要は合理的かどうかの判断基準は、国によってめちゃくちゃバラバラなんよ。 僕がこの本を読んで思ったのはこうです。 まず、国によって何が合理的かはそもそも違うと。 でも、今は経済の論理が社会全体を覆い尽くしとるから、経済合理性だけが合理性になっとる。日本は、アメリカ的な経済合理性が一気に社会を覆い尽くしたけど、実際は「空気を読むことこそが合理的」っていう文化で、しかもそれは昔話でもなくて、今日も引き継がれとる。渡邉さんが研究対象にしてるんは今、僕らの子供が使ってる国語の教科書とかテストやからね。 アメリカ的経済的合理性と日本的空気の合理性のあいだで引き裂かれたんがかつての自分やって、僕はそう思った。 いやー、この分析はほんまにおもろいからぜ

  8. 6月3日

    ごきげんでいる方法|ままならジオ(ままなラジオ)#14

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 人生、ごきげんがいちばん。でも、ごきげんでいるっちゅうんは、意外と難しいんよなー。今日はそんなお話しです。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 今日は「ごきげん」について話したいと思います。 僕、『弱さ考』に「これからは強くて優秀じゃなくて弱くてごきげんだ!」って書いたらめっちゃ反響が大きかったんですよ。「井上さんめっちゃいいですね!」みたいな でも、実はちょっと申し訳なかった。あんまりごきげんについて深く考えてなかったから笑。なんかごめん、と。せやから、考えたで!待たせたな!って感じです。 まず、僕がなんで「ごきげん」なんが大事かと思ったかというと、これは恩師の教えなんですよね。僕が新卒で入社した会社の会長が、もうものすごくいつもごきげん、ごきげんっていうのよ。 まあ、でも20代前半のおれは思ってたよね。「この人は何を言っとるんや」と。まったくわかってなかった。きげんなんてどうでもええやろ、と。 その会長はね、「みんな不機嫌であることによって、何かをゲットしてるんだ」っていうふうに言うんですよ。 たとえば「自分はすごく賢いんだ」って見せつけるために、もったいつけて気難しくふきげんそうな顔をしてるってね。 でも、たしかに、あるよね。そういうの。不機嫌で人を動かす人っているやん?どんな職場にも。 周りの人が、「あの人の機嫌がいいかどうか?」を常に気にしなくちゃいけなくて、「この人の機嫌が悪くならないように振る舞おう」みたいなことを思っちゃう人。その時点でその人は自分の不機嫌によって他人の配慮を引き出して、ゲットしてるわけで、不機嫌を 1つの戦略にしとるわけですよ。 まあ赤ちゃんはね?しょうがないよ。不機嫌になったらすぐ泣いて、周りの大人は、あわわわーって振り回される。 まあ、でも大人になったらさ、自分の機嫌ぐらい自分で取ろうぜと思いますね。 今振り返れば、当時はその恩師の言うことも「なるほどねー」くらいにしか思ってなかった。20代前半やったからね。でもその後ちょっとずつ社会人経験を積んでいくにつれて、あ、やっぱご機嫌って大事なんやって感じることが増えてきたわけよ。 僕、ビジネス書の編集を長くやってきたんですけど、だいたいどの本にも書いてある警告みたいなんがあるんよ。 「それはスキルで人をとるな」っていうやつ。「即戦力だ!」っていう理由で採用すると痛い目見るぞって。組織が崩壊するぞって。 僕なりの言葉でいうとね、それは、その人が何をできるか、だけじゃなくて、その人が周囲の人にどういう影響を与えるかをみろってことやと思うんですよ。 僕はそれを触媒的能力って呼んでるんですけど。 触媒って、あのーあれ、科学かなんかの授業でならいませんでした? 自分自身は変化しないが周りを変化させる物質のこと。たとえば、小麦粉だけではパンにならないでしょ?小麦粉にイースト菌が加わると、ぷくーって膨らんでパンになるんよ。でも、イースト菌自体はただそこにいるだけなんよ。触媒ってそういう、ただそこにあるだけで周りに変化を起こさせる物質のことね。 人でもいるやん? 自分が高い成果を残すためには人をとことん利用してやろう、っていう人。利用価値がある人にはちゃんとするけど、利用価値がないと判断した人にはめっちゃ冷たい人。あと他人の手柄を平気で横取りするとか。こういう人がいるとチームが崩壊するやんね。 逆に、仕事がすげえ優秀っていうわけちゃうねんけど、あの人がいるとなんかいいよね!って人もいるやん?なんか雰囲気が明るくなるよね、とか。それがつまりごきげんやと思うんですけど。 そういう人こそ組織にとってすごく大事やっていうのは、10 年ぐらい働いたらなんとなくわかってくる。 でもその恩師は言ってたのよ。ごきげんでいることの難しさも。 っていうのも、ごきげんでいたら、人間ってアホっぽく見えんのよ! 「あの人ってさ、悩みなさそうだね〜」みたいな。逆に不機嫌でいたら最初に言ったみたいに少し賢そうに見えたりするのよね。 ごきげんでいるには、勇気がいる。 でも、勇気を発揮してごきげんでいることができれば、不機嫌で人を動かすんじゃなくて、ごきげんで人を活かす人、活性化させる人になれる。 恩師にね、謝りたいですね〜。「あんときなんもわかってなくてごめんなさい」って。でもね、最近僕もちょっとずつごきげんになれてる気がするんよ! それは、実は鬱の体験からきてましてね。 人間って全然立派な生き物やないんやなって自覚できたことで、僕はごきげんな人間にちょっとなれたんですよ! どういうことか。説明しよう!ちょっとごきげんに言ってみました。ネタが古いな。 僕、鬱んときはとにかくエネルギーが枯れてたの。ほんで、タイミングが悪いことにそんとき子どもがイヤイヤ期やったわけよ。 3歳くらいやったかな?とにかく理不尽なまでに泣くわけ。こっちが泣きたいわってくらいに。 世の中のお父さんお母さんは立派やから、それでも淡々と育児をこなすわけやけど、僕はもうあまりにエネルギーが枯渇しすぎてて、キレたんよね。3歳の子どもに。 だぁまれ〜〜〜〜〜!!!!!うるさーーーーーーい!!!みたいに。エネルギーが枯れてたらキレられへんやろって思うかもやけど、そうやなくて、エネルギーが枯れてると、理性によるブレーキみたいなんがぶっ壊れんのよね。 いやあ、ほんまもうクソみたいな人間やったね。あんときに自分の「立派な人間でいたい」みたいな思い上がりが一個ガラガラで音を立てて崩れたんですよ。 ほんで二つ目。これも鬱のどん底のとき、僕は自分のことを惨めやって思ったんですよね。あまりにもできることがなくて。 で、「惨め」やと思ったっていうのが実はすごく大事で。 これ、惨めじゃなくて「苦しい」とか「悲しい」でも良かったはずなんよ。でも僕はまぎれもなく惨めって感じたんよね。 惨めっていうのはすごく人と比べる言葉やなあと思うんよね。周りの人はあんなに頑張って活躍してるのに、とか。当時もめっちゃ人と比べてた。逆に誰もいない無人島で惨めになるのってまあ難しいと思うのね。 惨めっていうのは、なんちゅうか、基準となる点があって、そこからの比較で生まれてくる感情な気がすんのよ。 で、そんとき自分を惨めにさせてたのは、過去の自分やったんよね。 過去のバリバリ仕事してた頃の自分が、見下してきおんのよ、俺のこと。 お前は何もできねえやつになったなあ、みたいに罵ってくるわけ。 ほんで気づいたんよね。おれはめちゃくちゃ人のことを能力でジャッジしてるなって。能力=人の価値くらいに思ってるやんって。 それがもうショックで。自分はもうちょっとましな人間やと思ってたぞと。 この2つで決定的にわかったんよね。自分がいかに立派な人間でないか。これからも立派な人間になれる日なんてこんということが。 もう一個思ったんが、これ、おれだけやなくて余裕がなくなったらどんな人もたいがい愚かな人間になってまうんちゃうのってこと。 それから、いままでの自分やったら「なんて愚かな人や」って思うようなシーンに立ち会っても「ああ、あの人はいま余裕がないんやなあ」と思うようになった。 自分の底の浅さ、醜さみたいなのと直面したのがすごいよかったんよね。あれ、おれ、ダサすぎひん?っていう。もう笑ってまうしかないなと。 そっからね。ごきげんになったのよ。いや、もう半分ごきげんっていうテーマ忘れかけてたけど。戻ってきました。 なんでかと言うと、「自分は立派な人間になれるんだ」っ

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番組について

「ままならジオ(ままなラジオ)」は人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者・井上慎平が、哲学や読書を手がかりに、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考えるポッドキャストです。 焚き火の音とともに、あわただしい毎日の「余白」となれば幸いです。 思考すること、問いを立てること、対話することが好きな方へ。 ■井上が主催するオンライン読書プログラム「問い読」はこちら https://go.toidoku.com/inoue ■お便り・感想はこちら:https://forms.gle/NaDpXUbzPB3Tri6PA ■著書『弱さ考』:https://amzn.asia/d/0j1A47b1

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