『弱さ考』井上慎平のままならジオ(ままなラジオ)

井上慎平(『弱さ考』著者/問い読共同創業者)

「ままならジオ(ままなラジオ)」は人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者・井上慎平が、哲学や読書を手がかりに、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考えるポッドキャストです。 焚き火の音とともに、あわただしい毎日の「余白」となれば幸いです。 思考すること、問いを立てること、対話することが好きな方へ。 ■井上が主催するオンライン読書プログラム「問い読」はこちら https://go.toidoku.com/inoue ■お便り・感想はこちら:https://forms.gle/NaDpXUbzPB3Tri6PA ■著書『弱さ考』:https://amzn.asia/d/0j1A47b1

  1. 8月5日

    「簡単じゃん。」に追い詰められる|ままならジオ(ままなラジオ)#23

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎ 読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 娘よ、ごめん。お父さん、反省してます。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 僕は、『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』っていう本を書いたんですけど、あらすじをいうと、今まで当たり前にできていたことが鬱でできなくなって、そのときに今まですごく無理をしてたんやなーって気づいて、もう強がるのはやめよう、って気づいていく、そこから世間で求められる強さと弱さについて考えてく、そんな話なんですよね。 で、今日のテーマは「簡単じゃん」って言葉です。 これ、僕自身が今までいろんな人であったり、他人であったりに今まで発してきてた言葉なんですよね。 そのことに今すごく反省があって。 今日、娘と喧嘩したんですよ。どんな喧嘩かっていうと、まず娘が毎日リュックをぱんぱんにして帰ってくるんですね。で、入りきらんから水筒を手で持って帰らなあかんくなったりして、その結果しょっちゅう水筒を学校に忘れてきたりが続いてね。 で、ずっと「もっと学校に置いてこれるもんないん?別にこれだけたくさん持って帰ってきても、一回も家で使わへんやん」っていう話になって。 んで娘に聞いたら「学校に持って帰れと言われてるわけではないんだけど、机がぱんぱんだからしょうがない」 って言われたんですよ。 それでまあ、「しょうがないんかなあ」と思ってたら、ある日参観があったんですね。そしたら娘の机はたしかにぱんぱんやったけど、他の子はそうでもなくて、カバン持たせてもらったらうちの娘より全然軽かった。 要はうちの娘は毎日あんな重いもんもって帰ってくる必要なかったんですよ。 やから、僕は 「とにかく学校の机のなかにあるもんで、いらんのは持って帰ってくる。ほんで机に入れられるものは入れて、バッグ軽くして帰ってくること!ええな!」みたいな感じで強めに言ったんですよ。 それでも娘はやらないんで、お互いイライラが募るようになって。 で、今日あまりにも強く言いすぎたんで、ちょっといま反省モードです。 何があかんのかなあ、と思って考えてたときに、この「簡単じゃん!」って言葉がふと湧いてきたんですね。 僕は、娘にずっと「簡単じゃん!」って言い続けてきたんやなあと。 そういうことってあるやないですか。 自分も、他の人からしても当たり前のことが、誰かにはできない。「簡単じゃん」って周りに言われるようなことができない、そういうことは職場でも、どの組織でもあるでしょ? 現に僕は今日娘にイライラをぶつけてしまってからも、このイライラをうまく解消できないままこうやって収録してるんですね。 これも「簡単じゃん!」なんですよね。 娘にとっては、たぶん机のなかのいらんもんといるものを区別して、持って帰って、毎日いるものといらんものを区別するっていうのは、難しいんですよ。 他の子には簡単でも、うちの子には難しい。 せやったらイライラしたってどうせいいことないんやからイライラせんほうがいいですよね。周りに迷惑かけてるんやったらまだしも、結局娘が「リュック重くてもいい」って言ってるんやから。もうええわと。 僕は、鬱を発症してまだ症状が続いているから、つねに気持ちに余裕がない。いろんなことが難しなったんです。やから過去の自分に「簡単じゃん!」って言われたら「うっせえわ!」って思うんですよ。 お前におれの気持ちがわかるかい、って。 つまり、誰かにとっての「簡単じゃん」が他の人にとっては「簡単」じゃないっていうシーンをいろんなところでみてきたな、というか自分がこれまでしてきたなって思うんです。 仕事をしてても、「あなたは他のことはうまくできるのに、なんでそこだけはそんなできへんの?」みたいなことってあるじゃないですか。で、僕は「あなたなら簡単じゃん!」って言ってしまってたんですよね。言い方は違っても。メッセージとしては。 でも、今になってまざまざと痛感するんは、ふつうに見える人のなかにも、「他人には簡単でも私には簡単じゃない」ってことはあるんですよ。 鬱になった今の自分にはそれがよくわかるんですよ。 娘にしても、なまじ言葉が達者になってきたから 「Aでしょ、AじゃなかったらBでしょ。どっちかやん!やりいや」 っていう感じにけっこう理詰めで怒ってたりしたんですよ。基本、マッチョ思考やから。 でも、今の僕以上に娘なんかまだまだデコボコがあるわけやねんから、「持って帰るものを減らす」という行為が、「他人にとっては簡単でも私にはそうじゃない」っていうカテゴリーに入るものやってことはあるわけですよね。 大事なのは、「その人の全体像をみたら簡単にできそう」ってことで。なんでも不器用みたいな人にはそんなこと思わない。 でも、人にはそれぞれ、周りからみたら意外に簡単そうで、難しいってことを抱えてるもんなんで。 それを正論で詰めたところで、それが理屈としては正しいことは本人やってわかってるんですよね。やから黙ってしまう。黙らせた方は勝ったと思ってるんですけど、それってほんま傲慢なんですよね。 外から見てその人に「これはできるやろう、みんなできることやし」って勝手に押し付けるんって、よっぽどのことがないかぎりやったらあかんのですよ。 その人はもう十分に自分の「できなさ」を理解してる。 「みんなからみたら簡単なことが私にはなんでできへんねや」ってふがいなく思ってる。 そこに、マッチョなスタンスで、これが正解やって押し付けてもそれはその人を追い詰めるだけなんですよね。「自分を大事にする気持ち」を削っていっちゃうだけなんですよね。 いや、これ僕サラリーマンやったときめちゃくちゃしてたやろうな、って今めっちゃ反省してます。今、自分ができることが激減したからわかるけど、そうじゃなかったから、ずっと傲慢でしたね。 「Aでしょ、AじゃなかったらBでしょ。どっちかでしょ!」 「いつやるの?今でしょ!」 みたいなことめっちゃ言ってもうてたなあ。振り返ったら僕だって苦手なことだらけやったんですけどね。しょんぼりですわ。 「簡単じゃん!」っていう言葉って結局「自分には簡単だよ」ってことですよね。 自分の基準を相手にも投影してるだけなんですよね。 今日帰ってきたら娘にも「ごめんね」って言おうと思います。 「よく考えたら、お父さんもできそうなのにできへんことばっかりやったわ」って。 はー。ままならんですねえ。「簡単じゃん!」っていう強い理屈をぶつけてしまうときって、その人にも余裕がないってことですからねえ。 やから、これ聞いて「私もやっちゃってるな」って思う人もいると思うんですけど、僕のポリシーは 「どんな人間も余裕がなければダメ人間」 なんで、あんまりダメな自分のことも責めずに、まあのらりくらいやっていきましょう。 それでは、今日のままならジオはここまで。この番組は一緒に考える、をやりたいんで、質問・感想もフォームから募集してます。 僕が主催している、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」と一緒に、詳細を概要欄に置いておきます。 井上慎平でした。 ほんじゃあ、また。

  2. 7月29日

    人が人を嫌うのはどんなとき?|ままならジオ(ままなラジオ)#22

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎ 「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」⁠ https://go.toidoku.com/inoue⁠ ▼ X⁠ https://x.com/inoueshinpei⁠ ▼ 著書『弱さ考』 ⁠https://amzn.asia/d/03uqa3kO⁠ ▼ 読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 人を嫌いになるとき、その人は自分の「鏡」なんよね。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 「人が人を嫌いになるのはどういう時か」?っていう、今日はそういう話をしたいと思います。 前回の「考えない人生」についての回でも話したけど、人が人を嫌いになる時って、一言で言ってまうと、やっぱ同族嫌悪なのよね。 僕は前回、自分が出版業界に長くいたのにその空気にあんまり馴染めんかった・・・みたいな話をしました。 「本を読むことは尊い」みたいな空気がどうにも・・・みたいな話をしました。 けど、もし本当に自分が「本を読んでることは尊い」「そうじゃない人はあんま偉くない」みたいな鼻持ちならんことを思ってなかったら、そんなに、なんちゅうか反応しないのよね。 何かを嫌になるって、それに対して反応してる、リアクションしてるってことやと思うんですよ。 ほんでリアクションしてるってことは、自分の内側にその人の嫌やと思う部分に反応する何かが隠されとると思うんですよね。 やから、自分自身のことでいうと、まずもって自分が「本を読んでる俺は偉い」と内心ではうすうす思っとるわけです。 でも一方で「それは嫌なやつよな〜」って思ってる自分もいるから、「嫌なやつ」側の自分を出さないように出さないように、って必死なわけや。必死に我慢して抑えとるわけ。 やからこそ、なんのてらいもなくそういう価値観を表に出す人を見ると、「嫌いやわ〜」ってなるっていう。 基本はやっぱ人間、同族嫌悪ですよ。悲しいかな。 今は僕の例ですけど、自分の中にある、うっすら感じていて頑張って蓋をして隠してる気持ちを、堂々と表に出す人、そしてその出してることにすら無自覚な人っているやないですか?いるやないですか? いないとは言わせませんで? そういう、自分が蓋をしている自分の気持ちを他人の中に見た時、人は人のことを嫌いになるんであって。「その人のことを嫌いになる」っていうふうに心を変化させることで、自分を守ってるんですよね。 やから、人を嫌うとき、人は自分をその人の中にみてるし、つまりはその嫌いな人は鏡に映った自分なんよなあ。 自分の中にある醜いものをその人の中に見ているちゅうか。まあ、それが醜いかどうかは知らんが、少なくとも自分の主観としては醜いと思っとるみたいな。 その気持ちが自分の中にあるっていうことから目をそらすためにその人を嫌うみたいな。 いや、今めっちゃいいこといっとるな。うん。これ今までの放送のなかでいちばんいいこと言ってる感あるな〜。知らんけど。 いや、こういうね、いやしい気持ちはいっそ正直に言っていったほうがごきげんで楽しい気がするんですよね。 ああ、もう一個言いたいこと出てきたわ。人は自分の本音を覆い隠して生きてるんちゃうかってことと関連して。 僕、編集者だったんですけど、ご縁があって自分で『弱さ考』っていう本を書く著者になる機会をもらったんです。ほんでね、そこで気づいたんですよ! それは、その人が「書いたり話したりすること」と、その人が「本当に思っていること」ってぜんぜんちゃうなっていうこと。 もうちょい正確に言うと、自分がそういう人間やないと自覚してるからこそ、あえて、そうなりたいっちゅう憧れをこめて言ってる、みたいなことってよくあるんちゃうかなと。 たとえば、「弱さ考」ですごく反響があったのが、「これからは強くて優秀よりも、弱くてご機嫌だ!」っていう一文なんですよ。 強さを求めて頑張りすぎて、脳が悲鳴をあげて鬱になって、そのうつ状態はどうやらこれからも消えそうにないってなったときに、とっさに「弱くてごきげんだ!」っていったんですよね。 いや、その気持ち自体に嘘はないんですけど。 でも、それは、僕が「強くて優秀な人間でありたい」っていうことに、まだめちゃくちゃ執着してる裏返しなんですよ、今思えば。 過去の話やなくて、現在進行形でまだそういう気持ちがあるんですよ。 あるからこそ、そんな自分を認めたくなくて、「弱くてごきげんだ!」って力んで言ってるみたいな。何かやたらと力んで言ってるときは、嘘ですね。 仕事楽しい?ってきいたときに、楽しいです!ってびっくりマークつけて返してくるって人はあやしいですね。ほんまに楽しい人って楽しいとか言わないですからね。 うん。此の期に及んでまだ「強くて優秀」みたいなものを目指してる自分にうんざりしてるんやな。そういう気持ちがあるから、次は「弱くてごきげんな私に、なりたーい!」みたいに書くことで、断ち切ろうとしているっちゅうか。 自分で書く言葉によって自分を引っ張っていこうみたいな感じかなあ。知らんけど。 つまりは、その人がそういうことを書く、というのは執着してるからわざわざ文にまでして主張するんでやって、その人の本性はむしろその逆、みたいなことってめっちゃあるって、著者になって思いました。 やから、悟ってる感じのことを書いてる人は、煩悩の塊ですよ。むしろ、他の人と比べて煩悩が強すぎるから自分で自分を説得しとるんですよ。 だから、たとえば、寂しさについて語るんやったら「孤独が実は最高なんだ」みたいなことを言う人がいたら、その人は、たんにめっちゃ寂しい〜はずなんですよ。 やっぱそこまで孤独について悩んで、考えて、わざわざ言葉にして、みたいなことをせんと生きていけんほどには、気にしとるわけよ。 やから、人の言葉には、その人も気づいてない裏があるちゅうことよな。 「ほんとうは私はそういう人間ではありませんが、そんな自分のことを認めてしまうんが嫌でたまらんので、だからこそ」っていう長い前置きがあって、「だから●●です」「弱くてごきげんなのです!」キリッ!みたいに言ってまうっていうね。 いや、みんな嘘つきやと言いたいわけやなくて、人間って矛盾だらけよなあって。その人に演技をしてる自覚もないしね。 私は本音を話してるって思ってしまうところがなかなか怖いところですね。いや、ゆうてるおれもね。ままならジオなんか全部そうですよ。 「自分で自分の本心を見たくないから本当のことが言えない、本人もその構造に気づいてない」っていうんは、同族嫌悪と近いところにある心の動きやなって思う。 どっちも意図的に「自分の本心に気づいていない状態」をつくってるんですよね。 やから人が人を嫌うときっていうのは、その人のなかに自分をみてるときですね。 それでは、今日のままならジオはここまで。この番組は一緒に考える、をやりたいんで、質問・感想もフォームから募集してます。 僕が主催している、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」と一緒に、詳細を概要欄に置いておきます。 井上慎平でした。 ほんじゃあ、また。

  3. 7月22日

    考えない人は不幸なのか?|ままならジオ(ままなラジオ)#21

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 考える人生、多くのことを知る人生って本当に幸せなのかしらん?そんなことをずっと考えて、ある一つの答えにたどりつきました。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 考える人生、多くのことを知るってほんまに幸せなんかねえ。 最近、というかずっとそんなことを考えてます。 そんなことを考えるようになったのは、最近のSNSが大きいかなあ。 SNSのほうでいえば、僕たちはSNS以後圧倒的に多くのことを知ることができるようになったわけじゃないですか。 もちろんフェイクの情報も山ほど溢れててそれはそれで大きな問題なんやけど、「鋭い考察を発信してくれる」っていういい点のほうが大きかったと、まだ自分は思ってるんよね。 でも、多くのことを知る過程で人は「ああ、世の中はこんなすごい人がたくさんいるんや」っていう打ちのめされるような体験もするわけやん? 本当だったら会って話したりできない人のとても頭のいい考えが自然に流れてくる。それってほんまに幸せなんかなあ、ってよく思います。今自分が若い頃やったらどうなんやろう。今SNSで、一瞬で世界のトップクラスの人間の技術がかいま見えてしまったら、多くの子どもは「自分はこうはなれない」って絶望してしまうんちゃうかなあ。 もちろん、「自分が世界一になる!」って思って、才能が開花して、実際に世界一になるみたいなサクセスストーリーもあるやろうけど、それはほんの一握りの才能ある人にとっての希望であって。多くの人にとっては早すぎる挫折でしかないわけです。 いろんなことを知れてしまう世の中っていうのは、ある種残酷やなあと。 いやー、娘にいつからSNSをOKにするのかは、悩みますね。少なくとも僕は井の中の蛙でいられる幸福な時期が長いことは、悪くないんちゃうかなって思ってます。 あと、考えない方が幸せかも?たくさんのことを考えたり、知る人生が幸せか?って思うのにはもうひとつの理由がありますね。 やっぱり僕が出版業界にずっと身を置いてきたからそんなことを考えるんやと思うねんな。 やから、そこまでいったん振り返って話してみようと思います。 あらためて簡単に自己紹介をすると、僕は本の世界にどっぷりつかってきた人間なんですね。 出版社2社で働いた後に、NewsPicksパブリッシングという書籍レーベルを創刊した際の編集長を務め、ほんで退職して、今度は編集者から著者になって『弱さ考』という本を出した。 その後、「問い読」というオンライン読書プログラムを提供する会社を共同創業しました。 こう聞くと、すごい本好きなんだなと思われるかもしれないですが、そうでもないんですよね。もっと本好きな人は出版業界にたくさんいたし、そもそも「なかなか本なんて読めないし、読もうとも思わないですよね」っていう問題意識から、問い読だって創業しているんで。 新卒で出版社に入ったのだって固い決意があったちゅうよりは流れ着いたって感じですよ。 で、流れ着いたままに、最後まで染まれなかったというのが正直なところかなあ。 やっぱり出版業界って本を愛している人が多いから、やっぱりどこか本を読むことを尊いことやと、当たり前のことのように思ってる節があるんですよね。 つまり、「本を読み、より深く考えた人生のほうが幸せな人生だ」という価値観がマジョリティやったと。 でも、ほんまにそうかな?と思うところもあって。 本を読むっちゅうことは自分の世界を相対化する、客観視することでもあると思うんですよね。 知らなかったことを知る。この世の中が、人間の構造を知る。小説やったら他人の人生を追体験する。 そうすると、どんどん自分の人生「以外」のことを、その外の可能性を知っていくわけです。それによって救われることはもちろんあります。 ただ、その逆、まったく本を読まない人生が、読む人生に比べて貧しいものかっていうと僕は全然そうは思わないんですよね。 もちろん、出版業界の人全員が「本を読む人生のほうが豊かだ」と考えてるわけではないですよ?ただ、そういう空気があんのはたしかやし、もう一歩踏み込んで言うと、どこか本を特権化して、本を読める人をいちだん上に位置付けがちなんは、否めへんよなあと思うわけです。ひとことでいうと偉そうになっちゃうというか。 で、本を読むだけが考えるでは当然あらへんわけですけど、ここで、考える人生は幸せか?っていう冒頭のテーマにもっかい戻ってみたいんです。 考えることは、自分の人生を相対化することやと。 じゃあ、その逆は、自分の人生を絶対化してる状態なわけです。 ふだん使いの言葉で言えば、考える人は、自分を客観視できとることが多いんですよね。 深く考えない人は、より主観的に生きとる。 相対的に自分を見ることができる。客観視ができる。それは、偉いように聞こえるんですけど、でも、究極それをやらんと、生きて来れなかったということでしょ? だいたい、苦しいから本に救いを求めるんですよ。太宰か誰かが「小説など読まぬで済む人生ならそれに越したことはない」って言ってたんですけど、ほんまそうやなって思うんですよ。 考えないと生きてこられんかった人生やった。そうやとしたら、その人生自体は尊いと思うんですけど。でも、あんまり深く考えへん人のことを下に見るのはちょっとちゃうんちゃうか?って思うんですよね。 そうやって自分に言い聞かせないと、考えたり本を読む人間はどんどん、「考えて生きる自分は偉い」「本を読む自分は偉い」と鼻持ちならん方向に行ってまうんですよね。自然と。 人間は、自分が好きなものを高く評価したがります。 それによって、その好きなものと結びついてる自分も立派な存在やと思いたがるからです。 ほら、バンドマンに聞くと、ギタリストはギターが一番かっこいいと思ってるし、ドラマーはドラムがいちばんかっこいいと思ってるやないですか。 あと全然関係ないけど、「もう一回生まれるなら男と女どっちがいい?」って聞いたときにだいたい男は男、女は女って答えがちなんも、この好きなものを高く評価する気持ちが影響してるんちゃうかなあって思います。知らんけど。 このあたりは、ピエール・ブルデューっていう社会学者が書いた『ディスタンクシオン』っちゅう本から僕はインスピレーションを受けました。 やから、本を読む自分に対して抑制的でありたいっちゅうか、「あんま調子乗ったらあかんぞ」って言い聞かせとくくらいでちょうどいいと思うんよなあ。 あと、これはみなさんともぜひ一緒に考えてみたいんですが、自分のことを客観視しない人生ってシンプルに幸せですよね?  だって、他人と必要以上に比べないってことやから。 今も昔も、愛されるキャラクターって、自分のことを客観視できてへん感じがするんですよね。寅さんとかね。 漫画やアニメの主人公になるような人っていうのはことごとく客観視が欠けてたりして、そこが魅力やったりするんですよね。それ、ちょっと憧れてまうなっていう。 まあ寅さんは極端やとしても、あんまり客観視せずに、周りをキョロキョロせずどっしり構えてのんきに楽しんでる人は、けっこう幸せやと思うんですよ。 それを、なんか俯瞰した感じで小バカにするのは、ちょっとちゃうなって。 まーほんまのことをいうとね。自分やって鼻持ちならへんやつなんですよ。こうやって語ったりしないと、すぐ「本を読んでる人が偉い」なんて思ってしまうちっこい人間なんですよ。 だから、出版業界で、「この人本を読んでる人が偉いと思ってるな」っていう人を僕が気に入

  4. 7月15日

    見えない重りを引きずって歩くあなたへ|ままならジオ(ままなラジオ)#20

    どうせレールから外れてしまったなら、その先の景色を味わい尽くすしかない。今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 今日は「世界との摩擦」について考えたいと思います。これ、僕はよく使う言葉なんやけど、その割に「世界との摩擦」って具体的に何なんや?ってことはあんましっかり考えたことがなかったなと思って。 「世界との摩擦」って、大きい人と小さい人がいると思うのよね。世の中には。 摩擦が大きい人は、なんちゅうの? 生きているだけで抵抗の大きな人。ふつうの人がふつうにこなせる「生きる」ということを、こなせはするんやけど、すごい疲れてしまう、みたいなイメージかな。 なんかみんながふつうに陸を歩いてんのに、自分だけ水中で、まさに抵抗や摩擦を感じながら歩いてるみたいなイメージかな? うーん、やっぱ、具体的な自分の実感から話してったほうが伝わりそうな気がすんな。 僕はね、5年前に鬱を発症して、そこからうっすら鬱とがっつり鬱の間を行ったり来たりしてんのよ。 今日は1日元気でした!っちゅう日はまったくないのね。 で、鬱の症状はどんなんかっていうと、詳しくは#5の「鬱っぽい人の憂鬱な日常」で話したからそちらを聴いてほしいんですけど、ひとつは人と話すんがめちゃくちゃ疲れるってことなんですよ。あ、でも人と話すんが大好きな人間なんでね、僕と話す機会がある人は「疲れさせてるな」とかはマジで感じんといてほしいんですけどね。このうえない喜びですから。 でもまあしんどいんは事実なのと、あと、それが他人からはぱっと見そんなわからんってとこにもまた二重のしんどさがあるわけですよ。 話してる間の僕って、そこそこ普通に見えると思うんですよ。ただ、自分にとっては、何や? 見えない鉄球が手足にくくりつられているような感じですね。 少しの時間なら一緒に歩けるけど、長い時間ずっと歩き続けることはできへんって感じかな。あと、この鉄球は周りの人には見えへんねやっていう感覚もすごくある。 いや、僕は障害という「ままならなさ」をOpenにしてるからめちゃくちゃ恵まれとるほうなんやけどね。 なんで鉄球のたとえ出したんやろな。さっきの水の中を歩いてるでも全然よかってんけどな。なんか僕のなかで、市民プールのおばちゃんが浮かんでしもたんよね。 まあまあ、そこはええとして。 別に不幸自慢をしたいわけではなくて、ふつうの人がふつうにこなせることを、こなせはするけど、すごい疲れる、って程度の差はあれ誰でもなんかの場面ではあると思うんよね。 もう少し違う表現で言えば、ルールとのズレみたいな感じかな。たとえば、人間は集団で生きてかなあかんから、集団行動が苦手やともう学校に入るくらいのタイミングからそのルールのズレに苦しむやないですか。職場でもルールとのズレに困ってる人たくさんおると思う。 で、僕は今どんな人間になったかというと、世界との摩擦が大きい毎日をなんとかこなしてる人こそ「おもろい!」って思うようになったんよね。なんかもうシンプルにおもろ!って。 いや、面と向かって「それ、おもろいな!」とはそうそう言わんけどもね。 でも、おもろい!って純粋に関心を寄せてしまうんよな。 これは僕がそういう人間に変わってしまったんやというしかない。 今思ったんやけど、この世界との摩擦っていうのが、世に言う「生きづらさ」っていうことよね。これも#6の「「生きづらい」という言葉の危うさ」で話したから繰り返さへんけど、あんとき言わんかったこととしては、「生きづらさ」みたいな、自分の負の感情をなんでもかんでも受け止めてくれる万能ワードを使ってたら、それ以上考えが深まらへんような気がするねんな。やから、わざわざ世界との摩擦が〜とか言って、こうやって発信してるんやろね。 いやー、嫌なやつやね〜自分。自分だけ深いこと考えてるみたいないい草やね〜。まあ、そういうめんどくさい人間なんですわ。嫌いじゃない。嫌いじゃないよ! 僕はね、けっこう自分のこと好きですよ。まったく立派な人間やないし、自分の嫌いな部分も、そらたくさんあるけどね。自分のことをめっちゃ好き!と自分にはとても嫌いな部分があるっていうのは両立するんですよ。すごくナチュラルに。 なんの話やっけ。 もう迷子になってるけど、これって一個前の「理不尽について」の回で話した誇り、プライドの話と関係してるんよね。 「世界との摩擦」が急激に大きなった状態が理不尽なわけやから。それを一過性のものやなくて、ずっと続く慢性的なものと捉えると、理不尽やなくて「世界との摩擦」っていう表現になるんやな。 やからここでも、それを誇って生きていこうやということはもう一回言っときたいよね。 なんで誇れるんかっていうと、それは、その人がつけてる鉄球が誰にも見えへんからです。周りの人にはふつうに生きてるように見えるからです。 誰にも見えへんから自分で褒めてあげるしかない、っていう消去法で考えるんやなくて、誰にも見えへん鉄球を抱えて、それでもなんとかやってる自分まじですごいな!って素直に思うことです。無理なポジティブシンキングとかやなくて。だってすごいやん?回りの人からは見えへん鉄球をつけて歩いてるって。 世界との摩擦が大きいということは、また違う言葉で言い換えてみるとマジョリティのレールから大きく外れてしまったっていうことやと思うのね。 で、どうせマジョリティのレールから外れてしまってるんならその景色を楽しむしかない。 ただね、そう言うと「井上さんは自分のままならなさを本として売り出したり、こうやってラジオで話せてるからいいじゃないですか。私はただ苦しんでるだけです」って感じる人もいると思うんやけど。 まず、それはその通り。やけど、その「世界との摩擦」を社会的に認められるような価値に変えていけるか、役立てていけるかっていうことは実はまったく大事ではなくて。 味わっていくちゅうことが大事なんよ。 「世界との摩擦」はどうにもできひん理不尽なもんとして、ある。その事実はどうにもならん。自分はマジョリティのレールからは外れてしまっとる。そういう状況にいるなら、もうその外れたレールの先にある景色を味わい尽くすしか選択肢はないわけよ。 この「どうせ」っていう開き直りの精神が大事やと思ってんねんな、おれは。同じようなままならない状況に対して、「せめて」って頑張るか「どうせ」って開き直るかの二択があると思うんです。でも、「せめて」ってがんばって、マジョリティのレールに乗っかってるかのように強がってもあんまええことないからね。 そもそも強がっていること自体をみんな気づかんし。それやったら「どうせ」って開き直って味わいにいくくらいの気持ちのほうがいっそ清々しいやんっていう気がする。 ただ、それには大事なことがあって。 なんでもいいから、形に残すことが大事やと思うんよね。具体的に言えば、多くの人にとってはそれは「書く」か「話す」かっていうことになるんやと思う。 僕は『弱さ考』で書いて、こうやってラジオで話してっていうのを意識的にやってます。 「世界との摩擦」の先に見える景色を、おいしいネタにして形に残してる。摩擦が大きいって事実は「どうせ」変わらんわけやん? そこで自分が心と身体をもって感じたことを書く、あるいは話すって決めたら、全部がおいしいネタになるっていう。 「おいしい」っていう表現はまあ関西人特有やと思うんですけど。 でも、どうせ「世界との摩擦」が大きいならその人にしか味わえへんもんを味わい尽くしたほうがいいとほんまに思うし、一方で、味わい尽くすにはその先に話すなり書くなり、形に残す、アウトプットする作業がイメージできてへんとなかなか味わい尽くすんも難しいなっていう気がする。 これは土門蘭さんっていう人が書いた『ほんとうのことを書く練習』っていう本に教えてもらったことなんやけどね。 さっきの「井上さんはままならなさを表現に変えてるけど、自分にはそれはできない」って

  5. 7月8日

    理不尽について|ままならジオ(ままなラジオ)#19

    「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。 ▶︎ お便り(ご質問・ご感想)は⁠こちら⁠から募集中 ▶︎オンライン読書プログラム「問い読」は⁠こちら⁠。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」 ▶︎著書『⁠弱さ考⁠』 ▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし) 人生における理不尽とは何か。そして理不尽をどう引き受けていくんか?今日はそんなお話です。 ままならジオ。 『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。 もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。 理不尽。きたね。ザ・ままならなさって感じのテーマですね。 いやー、おもろいもんで。僕は鬱を発症して障害者にならんかったら、絶対こんなことを深く考えなかったでしょうね。 初めての方もいるのでお伝えしておくと、僕は5年前に1年ほど深い鬱になり双極性障害の診断を受けています。今も、うっすら鬱と、がっつり鬱のあいだを行ったりしたりしながらなんとかやってます。 やから僕にとって、理不尽とはまさにこの「しんどさ」のことです。毎日鬱ちゅうんは毎日しんどいっちゅうことですからね。でも、人には人それぞれの地獄がありますから。これを聞いている方にも、必ず理不尽はあると思う。それをどう受け止めるかですよね。 理不尽でわかりやすいのは、不慮の事故とか、病気とか、障害とかですよね。あとは急なリストラとか? 僕にとって「理不尽」って結局なんなのかっていうと、一言で言ったら因果関係が崩壊することやと思うんですよね。因果関係というのは、要は原因と結果のことです。原因と結果が、頭の中で全然結びつかへん状態が、理不尽。 まず、「事前に予測不可能やった」ってことが大事ですね。結果が予想できなかった。 不慮の事故の「不慮」って予期せず・思いがけず、って意味ですからね。 で、この思いがけずっていうのが、自分がどうにかできる範囲の「外」で起こってしまうこと。 自分が起こしてしまった事故は、反省や後悔はするけど、理不尽ではないんですよ。自分に原因がある場合はね。 でも、自分の家族が、知らない誰かの運転によって交通事故にあってしまった。これは、自分に原因はないわけですよね。 人間はいつも、だいたいこういう原因にはこういう結果が起こるっていう予測を立てて生きてるんですよ。でも、その原因と結果の関係が壊れる。自分はまったく悪いことをしてないのに、とっても悪い結果が生まれる。そのとき、原因と結果の因果関係が壊れるんです。人はそこではたと立ち止まり混乱するんです。「こんなん理不尽や」と思うんです。 僕がこのラジオの#1で話した「世界は残酷だ」っていうのはそういうことです。いいことをすればいい結果が待ってる。そんな優しいふうには世界はできてないんですよね。 この理不尽の感覚は時代によっても違うんでしょうね。子供を10人産んで2,3人成人すればラッキーっちゅう時代ってめっちゃ長かったわけです。たとえば、一人子供を失ったとする。その悲しみの度合いは時代によって変わらんとしても、それを理不尽と感じるかというと、その度合いは、昔のほうが低いんちゃうかなと。 逆に言えば、人類は医療を進歩させたり、社会のなかに法律を作ったり、差別を少しずつなくすことで、理不尽が生まれへんように努力してきたとも言えるわけで。 そういう観点から見ると、現代人は理不尽そのものに弱いし、理不尽なれしてへんのですよね。 さて、じゃあいざ理不尽がやってきたら、どう引き受けるかってことですよね。僕のなかでは「引き受ける」と「受け止める」は全然意味が違う言葉なんですよ。 受け止めるは整理して、納得してる感じがするよね。それに対して、引き受けるは「イヤダイヤダ」と言いながらも、なんとか立ち上がって歩き始めるイメージです。再び歩き始めないといかん状況がやってくるイメージです。 理不尽を受け止めるなんて、無理やからね。イヤダイヤダでええんよ。ただ、そこまでいくにもまず、大前提としてだいぶ時間がかかる。 心がケガしてる状態やからね。理不尽に直面したら心から血が出てる。そんときはまず止血することを考えてほしいです。自分の気持ちを楽にしてくれる本にすがってもいいし、人前で突然泣いてもいい。とにかく心の出血を止めるのがまずいちばん大事。 そこから、長いアップダウンの旅路がはじまるんよ。「ああ、なんとか自分はこの理不尽を引き受けれた」と思ったらある日「全然引き受けられてへんやんけ、自分」って気づいて愕然としたり。 「わかった、もう大丈夫や」「全然わかってなかった」の繰り返しですわ。僕が自分の障害を引き受けるために、何回も繰り返し通った道やね。 でも、引き受けるだけでも時間がかかるってことを知っておくのがまずは大事で。何十年もかかるかもしれへん。それを一気に解消しようとしすぎると無茶苦茶な方法にすがったり、オカルトに引っかかってしまったりするんやな。 あとは、考え方の転換やね。これが大事、っていうかもうこれしかあらへん。 「考え方を変えてみましょう」とか言われたら、理不尽に出会う前の、マッチョイズムゴリゴリの若かりし自分からしたら、なんかヘタレやな、自己啓発チックでなんかいややなって思ってたんちゃうかなあ。 でも、今は全然思わへん。 さっきは因果関係が壊れるって言ったけど、それってようは偶然、たまたま起こるってことですやん。でも人間って偶然を偶然のまま受け入れられるほど強くないと思うんよね。 僕、西田幾多郎っていう哲学者が、小さな娘を亡くしたときに書いた文章が好きで、彼はこう言っとるんよね。 「さっきまで遊んだり楽しそうに話したり、歌ったりしてたじゃないか。そんなお前がなんで今骨壷の中にいるんだ」って。で、その後に「もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ」って言うんですよね。 「意味がなくてはならぬ」。これってすごく強い宣言に見えて、弱さが露呈しているのが僕は人間らしくて好きなんです。 意味を作り出すっていうのは、壊れた因果関係をもう一回作り直すってことですよ。で、「意味をつくるんだ」って自分で言っちゃうってことは、すごく悪い言い方で言えば捏造するってことですよね。でも、そうやって自分なりに物語を捻り出さないと、人間はもう一度立ち上がって歩き始めるなんてできへんのですよ。ほんまの理不尽に打ちのめされたら。 じゃあ、考え方の転換っていうのは実際にどうやんのかと。あくまで僕にとって効果があったことを、共有しますね。 まず、原因と結果が一対一で対応してるんやっていう考えをやめることです。たとえば、「僕がAって言ったから、あの子はBをしてしまったんや」みたいなAだからBになったみたいな考え方をやめてみる。 自分のことを責めてる人の頭ん中に必ずあるんは、この原因と結果を一対一で対応させる因果関係ですね。 でも、当たり前ですけど、原因は、一億とか、一兆とか、それこそ無限にあるんですよ。僕が障害を負ったのも、遺伝子的な問題もあるかもしれんし、たまたまコロナ禍やったとか、それこそ20代のときたまたま運良く結果が出せたことが、巡り巡って鬱に繋がっとる。もうね、歴史とか自然科学とか社会学とかを学べば学ぶほどわかってくるんは、とにかく世の中たまたまでできとるってことです。 でも、さっきの西田幾多郎の例で出てきたように、たまたまで済ませられるほどに人間は強くないんです。人間って原因と結果が対応してないと、ものすごく不安になる生き物なんですよ。これは『弱さ考』の6章でしっかり書いたんで、よかったら読んでみてください。 一個だけ紹介すると、この「原因は一対一対応やない」ってことを僕に教えてくれたんはスピノザっていう哲学者なんですね。彼は、原因は一個ではなく群であるって。僕もほんまにそう思います。 原因を一個に絞っちゃうのは人間の脳がしょぼいせい

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番組について

「ままならジオ(ままなラジオ)」は人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者・井上慎平が、哲学や読書を手がかりに、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考えるポッドキャストです。 焚き火の音とともに、あわただしい毎日の「余白」となれば幸いです。 思考すること、問いを立てること、対話することが好きな方へ。 ■井上が主催するオンライン読書プログラム「問い読」はこちら https://go.toidoku.com/inoue ■お便り・感想はこちら:https://forms.gle/NaDpXUbzPB3Tri6PA ■著書『弱さ考』:https://amzn.asia/d/0j1A47b1

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